第333話 生命力を信じる

先月28日、北海道佐呂間町で39.5℃を記録しました。全国の観測史上、5月としては最高気温だったそうです。昼食で帰宅する頃は当地でも30℃を超えていました。

そんな暑さの中でも、家路の中央分離帯にキク科の花が咲きほこっていました。コンクリートとアスファルトが接する隙間にたまった僅かな土で生きています。雨が降っても、すぐに流れ去ってしまう道路で、どうのように水を確保しているのだろうか。その生命力に感動せずにはいられません。

野の花に限らず、人間の手が加わった作物にも、生命力が十分あります。ですから、何度も農薬をかけなくても、本来ほとんどの作物は病気が出ません。私は、ここ15年くらい殺菌剤を使っていません。露地トマトに発生しやすい疫病を除けば、私は病気で悩まされたことはありません。

ただ私がしてきたことは、作物の生命力を信じ、それが十二分に発揮されるように、土などの環境を少し整えてきただけなのです。農薬を使わない農法は、この「作物の生命力を信じる」ことが原点になければ、継続できません。

私たち人間も同じで、むやみに薬や医師に頼りきるのではなく、まずは自分自身の生命力を信じ、それを向上し維持し衰退を遅くするような生活を心がけることが健康維持の基本ではないでしょうか。

(文責:鴇田 三芳)

第332話 原因の原因の・・・・・

「先生、おとといから微熱と鼻水が出はじめ、昨日からは少し咳が出るようになりました。」 「そうですか。胸の音を聞いてみましょう。」と内科医が聴診器をあてる。「下痢や頭痛はありますか。」 「いいえ。」 「カゼですね。5日分、カゼ薬を出しときましょう。もし熱が上がったら、解熱剤を飲んでください。咳で苦しいときは咳止めも飲んでください。薬を飲み切っても症状が続くようでしたら、また来てください。」 よくある会話です。私は、こういう対応しかとらない医師をできるだけ避けたい。人間をただ物のようにしか見ていないように感じるからです。友人の内科医が言うには、「そのような症状があるときは、他に重篤な症状がなければ、一応カゼと診断するんですよ。」

今から20年ほど前の出来事。インフルエンザにかかったようで、かかりつけの開業医を訪ねました。その日はたまたま、若い医院長が学会出席のために不在で、その父親の「大先生」と呼ばれている先生が診てくれました。「インフルエンザだな。白湯(さゆ)でも飲んで、暖かくして寝ていれば、自然に治る。」 「先生、いつものように抗生剤を出してください。」 「そんなの要らないよ! 抗生剤はインフルエンザ・ウイルスにはまったく効かないんだから。体を暖かくして寝ていれば治る。」と叱られてしまいました。

人が病気になるのは、それなりの原因があります。例えば、体を極度に冷やしてカゼをひいたとき、前者が原因で後者が結果です。うっかりコートを忘れて外出し体を極度に冷やしたのであれば、これも前者が原因で後者が結果になります。つまり、カゼの原因の原因はコートをうっかり忘れたまま外出したこととなります。

野菜の栽培もまったく同じです。病気が発生した場合、必ず原因があり、その原因にもまた原因があります。例えば、たくさんの収穫量を得ようと肥料をたくさん畑に入れたために、肥料過多で野菜が軟弱に育ち病気が発生した、という因果関係はよくあるパターンです。つまり、病気が発生した原因を何度かたぐっていくと、たくさんの収穫物を得ようとしたことにたどりつきます。

このような思考経路をたどるのが面倒なのか、ほとんどの農民は農薬が手放せなくなってしまいます。原因を掘り下げず、ただ当面の対処だけするのは農民に限りません。インフレに誘導しようと日銀がお札をじゃぶじゃぶ市中にばらまいているのも、まったく同じです。

(文責:鴇田 三芳)

第331話 今だけカネだけ自分だけ

こんな風潮が日本で顕著になったのは、自由経済を促進するWTOが設立され経済のグローバル化が世界中に広がった頃からでしょうか。日本はこの時期、バブル経済がはじけ経済力が衰えはじめた頃でもありました。

経済の右肩上がりが続いていた頃は、「今だけカネだけ自分だけ」などという言葉は耳にしませんでした。ほとんどの国民は、「一億総中流」意識を持ち、未来に希望を抱き、来年も給料が上がると確信していました。大企業から中小企業まで、職場には村社会のような団結が強くあり、社員運動会や社員旅行はごく普通に行なわれていたものです。「自分だけ良ければいい」などという意識は希薄でした。

村社会も同様で、農業であれ林業であれ漁業であれ、「今だけカネだけ自分だけ」とは真逆な意識と慣習が深く根づいていました。農家は、先祖から受け継いだ農地を大事に使い、より良い状態で未来へと渡すのが当たり前。「自分だけ良ければいい」などという意識があっては、稲作など不可能です。村人総出で用水路を管理し水を平等に使わなければ、まともに米は作れません。村の慣習や伝統を破れば、それこそ村八分という厳しい制裁が加えられました。

そんな村社会にも、今や「今だけカネだけ自分だけ」という風潮が支配的になりました。今から見れば、農業分野では1960年代から、この風潮が芽生えはじめた気がします。農家の息子や娘が都会に就職していき、農村社会が崩壊へと向かいはじめた頃です。

この風潮は農作業も劇的に変えてしまいました。それは農薬と化学肥料の使用です。人手を都会に奪われてしまった農民にとっては仕方なかったことかもしれませんが、皮肉にも、そのような手っ取り早い農法が農業衰退の一因になろうとは、ほとんどの農民は予想していなかったでしょう。

堆肥を畑に撒(ま)くのを止め化学肥料を撒きはじめても、10年くらいは収穫量がグンと増えて儲かるので、止められない。気がつけば、地力が衰え病気が発生しやすくなっていました。当然、農薬の使用量は増え続けました。近年、日本の面積当たりの農薬使用量は、中国、韓国に次ぐ3位で、何とアメリカの5倍近くにもなっています。

農薬は、土の中の微生物と農地周辺に生息する虫たちを激減させてしまいました。人間の消化器系が何十兆個、何百兆個もの腸内微生物の働きによって満足に機能している事実を知っているなら、この激減が植物に計り知れないダメージを与えたことは想像に難くないでしょう。

菜の花3月下旬、菜の花を収穫していたら写真のようにミツバチが花にとまっていたので近づくと、死んでいました。花の受粉に不可欠なミツバチが世界的に絶滅の危機に瀕していると言われていますが、自分の現場でもひしひしと感じられます。10年くらい前までは満開の菜の花にミツバチが群れをなしていましたが、今ではほとんど見かけません。かつては、カボチャやズッキーニはミツバチなどの虫たちが受粉してくれたので、自然に実がついたものです。しかし、今では人が受粉しなければ、まともに実がつかなくなってしまいました。何と自然は正直なのでしょうか。

「今だけカネだけ自分だけ」は未来を喰いものにするだけで、未来に希望を抱けません。

(文責:鴇田 三芳)

第330話 数の魔力

数字は人生を大きく左右する。ほとんどの人たちは、数字を信じ、数字を操り、操られ、魅了され、時には裏切られ、目覚めてから眠るまで数字が頭から離れない。まるで、数の魔力の虜になっているようだ。死ぬまでその魔力から逃れられない人たちが大半だろう。さらに死後は、遺族が遺産相続の数字でもめる。

野菜を直売していても、消費者の購買行動に数が大きく影響していることに気づかされる。ほとんどの人が、中身の重さが同じなら、入っている数の多い方を買っていく。使い勝手もあるだろうが、やはり数の多さにつられてしまうのだろう。

時まさに、国会でも統計データでもめている。野党は「政府のデータ捏造(ねつぞう)だ」と追及している。

ど田舎に生まれ育った私が初めて数を意識したのは、小学校に入り通信簿を受け取った時である。その後、テストの点数やクラスの成績順位に一喜一憂し、思春期には「身長がもう何センチ伸びたらいいのになー」などと、つねに数の洪水に首までつかってきた。

40年ほど前、電子部品メーカーで働いていた時、自社製品のセールスのためにアメリカに出張したことがある。売り込み先の会社を訪問する道すがら、案内してくれた現地駐在の営業マンが何気なく口にした言葉が今でも忘れられない。「アメリカのビジネス界では収入で個人がランク分けされているんだ。週給1000ドルを超える者とそれ以下の者とでね、はっきりと。」

もし、私たちの生活や仕事を占有している数字を除いたら、いったい何が残るのだろうか。

ところで、先月19日夜、「ごま信用」をNHKテレビで知った。中国のIT企業アリババが開発したシステムで、一人ひとりの購買行動や友人関係などの個人データをもとにコンピューターが個人を点数化し、信用度をランキングするという。この機械が査定した点数をもとに、ビジネス活動や資金の融資が瞬時に判定される。はては結婚相手の紹介もしてくれるという。「何と恐ろしいことだ。」それが私の直感であった。個人のしめ付けがきつい中国共産党政権でもここまでしていないだろうに。

しかし、私の直感に反し、「ごま信用」が中国社会に急速に浸透しつつあるという。現金を持ち歩かずスマホですべての支払いをする「スマホ決済」が広く普及した中国の、次なるIT革命の一つが「ごま信用」なのかもしれない。そして番組では、日本でも類似の格付けシステムが始まり、それを利用している個人が紹介されていた。

まあ日本では、政府が個人の収入や資産などのデータを把握しようと導入したマイナンバー制度がなかなか普及しない状況から察すれば、「ごま信用」が早々に浸透するとは思えないが、・・・・・・・・・。はたしてどうなるやら。

思いおこせば、戦争の道具として開発されたコンピューターが社会活動の数値化を一気に加速させてきた。そしてついに、コンピューターの網(ネット)が個々人の価値を数値化し始めた。そんな社会の到来は、種の多様性をみずから減らし、滅亡の時を早めるだけだと私には思えてならない。

(文責:鴇田 三芳)

第329話 「わからない」ということ

生まれたばかりの赤子は本能で生きている。周辺環境への認識力が徐々に発達するにつれて、他人の言動を積極的に真似始める。そして、言語能力がある程度発達すると、「どうして?」を連発する。わからないことだらけで、「どうして?」と問うことにためらわない。生きていくために必死なのだ。

世間では、今まさに受験シーズンである。人生を左右されかねない試験に知力を競う恒例行事である。もちろん、受験競争は今に始まったわけでもなければ、日本特有のものでもない。中国の隋の時代に始まった科挙(官僚登用試験)はあまりにも有名で、その影響が近隣諸国に伝わり、日本では大学受験という形で受け継がれている。聞くところでは、今でも中国や韓国での受験競争はきわめて熾烈で、日本の比ではないらしい。

受験勉強にかぎらず、学校教育は、必ず答えが用意してあり、「わからない」ということは否定される。「先生、そこ私わからない」などと生徒に言わせない。ただただ、知識を押し込む。その内容にいたっては、1000年以上も前の知識が含まれていて、大人になって必要な知識がどれほど含まれているのやら、はなはだ疑問である。

17世紀、フランスの数学者フェルマーは驚くべき証明を成し遂げたと書き残した、と伝えられている。いわゆる、フェルマーの最終定理である。中学校の算数で教わるピタゴラスの定理の延長にある定理である。ところが、このフェルマーの最終定理は本当に正しいかどうか360年ちかくわからなかった。その間、多くの数学者が答えのわからない難問に挑んできた。なかには、人生をかけて研究した数学者もいただろう。

このように、人は本来、「どうして?」とわからないことを知ろうとする。幼子を見れば、一目瞭然である。

しかし、日本の教育は、昔から記憶力に偏重し、体験や記憶したことを有機的に組み立て新たなことを考え出す傾向になっていない。そのような教育が、アメリカほどにイノベーションが日本で生まれない原因の一つであるように私は思っている。

教育は、人が持つ好奇心と探究心を押さえつけることなく、「わからない」ということを重要視し、わからないことがわかった時の喜びを子どもたちに十分体験させなければならない。

皆生農園には毎年3、4名の研修希望者が訪れる。そのほぼすべての人たちが、学校教育にすっかり順応していて、「知識を教えてもらう」という姿勢が顕著である。

何をするにも基礎的知識は不可欠であるが、見るもの聞くものの中に「わからない」ことを積極的に見つけ、「どうして?」と自問する習慣がなければ、とても新規に農業の道を切り拓けない。つめ込み教育に長らく馴染んできた人にとっては、この習慣をつけるには相当の時間を要する。

しかし、そうしないと、自ら課題を見つけ、自分の頭で考え、自発的に適切な対応をとる能力が育たない。私は、研修生に具体的な農業技術を伝えるとともに、この習慣が身につくよう徹底的に質問している。「君はどうすればいいと思っている?」とたびたび質問している。

(文責:鴇田 三芳)