第107話 未知との遭遇

百姓雑話

毎日仕事に没頭している関係で、過ぎ去った日々を思い返したり、将来へ道筋をじっくり見定めたりする余裕がなかなか取れないが、まとまった休みが取れる年末年始は別である。

うつらうつら朝寝坊をしながら振り返ると、去年もたくさんの初体験があった。新たな出会いも厳しい別れも、好ましいことも嫌なことも、大事なことも些細なことも、成功も失敗も、たくさんの初体験をした。歳のせいか今となってはその多くを忘れてしまっているのだが、その時は一つひとつに一喜一憂し、退屈しなかった。ありがたいことである。元気で働けたことに、感謝、感謝である。

このような初体験、いわば未知との遭遇は、自分の殻に閉じこもり外界との接触を断っていなければ、多かれ少なかれ誰にでも起きている。もし「何か毎日同じようだな」と思うのであれば、厳しい言い方かもしれないが、未知との遭遇を感じ取りにくくしている何かがあるのである。それは、明るい都会の真っただ中で夜空を見上げて流れ星を探すようなものかもしれない。そのような環境の中にいては、見える物も見えにくくなって当然であろう。

未知なるものに遭遇した時に、問題になるのはそれをどう受け止めるかである。その受け止め方は千差万別、各人各様なのであるが、その受け止め方こそがその人の個性であり、人生の質を左右するものであり、時には民族の興亡に関わることさえある。非常に荒っぽい分け方を許していただければ、2種類の受け止め方がある。それは、肯定的に受け止めるか、否定的に受け止めるかである。あるいは楽観的に受け止めるか、悲観的に受け止めるかと言ってもいい。

もちろん、「未知との遭遇を肯定的に受け止めるのが良くて、否定的に受け止めるのは良くない。」などと単純に決めつけられない。その人の体験してきたことや性格、あるいは置かれた状況や社会慣習などによって、同じことも違って受け止めることが普通であるからだ。

ただし、確かなことは、「肯定的に受け止めると、時には身を滅ぼすこともあるが、その方が気楽であり、ストレスを受けにくい。」ということである。

日頃、研修生に厳しく接している私だが、根は楽観的なので、未知との遭遇を苦にすることはあまりない。「人生は死ぬまで未知との遭遇かもしれない。もしかすると、死そのものが人生最大の、そして最後の未知との遭遇かもしれない。」と達観できれば、厳しい未知と遭遇した時でも、動揺しなくてすむだけでなく、時には楽しむことさえ可能である。

さてさて、今年はどんな未知との遭遇があるのだろうか。身を持ち崩さないように自滅しないように気をつけつつ、できるだけ前向きに受け止めて生きていこう。

(文責:鴇田 三芳)