第133話 効率と生存

百姓雑話

「わが社が存続するためには、生産効率をもっと上げなければならない」と企業経営者は社員に奮起をうながす。人の命を預かる医療業界でも今や常識である。一部の仕事を除けば、効率の追求はとても重要である。世界がこれほどまでにグローバル化し、どこにいてもインターネットを使って資金や情報が瞬時にやり取りできる時代になった今、人生哲学や倫理観、価値観の相違に関係なく、仕事上の効率の追求はきわめて当然の職務態度である。これが人類の辿りついた労働の現実である。

農業の世界も例外ではない。日本ではその典型を稲作に見ることができる。私の生地は稲作地帯で、水田を耕運機で耕す以外は、すべて手作業であった。まず川下の農家は川上に農家の田植えを手伝い、順に手伝い合いながら川の流れにそって田植えを済ませていった。

それが今や、トラクター、種蒔き機、田植え機、除草剤、収穫と脱穀を同時にこなすコンバイン、そして乾燥機などの普及によって、機械のない時代に比べて桁違いの労働時間で一連の作業が終わってしまう。半世紀も前の農民が見たら驚嘆するほどの効率化である。

稲作だけでなく、野菜の栽培でも同じである。生産効率をどうしたら上げられるか、まともに農業を続けている農家であれば、いつも考えている。ここで、2つの例を紹介したい。

今から15年以上も前になるだろうか、あるピーマン農家の収穫の早さには驚かされた。一般的にピーマンの収穫は、左手でピーマンを掴み、右手の鋏でヘタを切り収穫コンテナに入れる。しかし、その農家はダーッとピーマンを切り落とし、通路に転がっているピーマンを一気に集めるのである。一般的な収穫方法の半分以下の時間で済ませてしまった。

もう一つはトマト農家の例である。一般的な栽培方法では、トマトの苗を植えるたびに畝(うね)を作る。ここでは詳細を省くが、その畝(うね)を作るのに手間がかかるだけでなく、少なくても2ヵ月は収穫が途切れる。しかし、そのトマト農家では、一度作った畝(うね)を崩さず、ズーッと同じ畝(うね)でトマトを栽培している。いわゆる「不耕起栽培」である。収穫中のトマトの間に次の苗を植えるので、収穫がほとんど途切れない。実に効率が良い。相当な実力がないとできない栽培方法である。

しかし、効率の追求は両刃の剣である。効率をあまりにも追求すると弊害も生む。農業で言えば、農薬依存がそれである。農薬を使えば、病気や害虫から作物を守れ、生産効率は格段に向上する。しかしその一方で、農薬による健康被害や自然破壊は地球規模で蔓延している。

さらに、工業分野での問題としては、公害がある。かつて日本でも深刻な公害問題に悩まされていた。それが一段落したら、次は放射能汚染である。中国では、PM2.5の問題が深刻である。それがために、富裕層を中心に海外へ移住する中国人が増えていると聞く。生存にかかわる問題への究極の選択かもしれない。

また、効率の追求は生産活動にとどまらない。敵をいかに効率よく殺傷するか昔から人類は考え新兵器を作ってきた。

効率、効率、効率・・・・・・・。いつになったら人類は効率の追求を見直すのだろうか。それとも、効率の追求は人類のDNAに組み込まれている宿命なのだろうか。

(文責:鴇田 三芳)