第178話 新・・・・・

百姓雑話

私はいまだに単純な携帯電話、いわゆる「ガラケイ」を使っている。iPoneの新製品が発売されるというニュースを聞いても、別世界の出来事のように思えてならない。買ったところで、使いこなすのが面倒で、宝の持ち腐れに終わるのは明らかである。

ところで、世の中には、「新・・・・・」と名のつくものが溢れている。「新製品」や「新車」、「新築住宅」や「新建材」、「新年」や「新世紀」、「新入生」や「新入社員」、「新郎」や「新婦」、「新米」や「新鮮野菜」、「新大陸」や「新天地」、「新政府」や「新法」など、挙げたらきりがない。

日頃とくに意識しないで使っているが、これらには共通する概念がある。イメージと言ってもいい。それは、ほぼすべての人たちが「新・・・・・」と聞くと、なぜか良い印象を受けることである。マイナス・イメージのものは数える程度しかない。

このようなイメージは、民族や文化の違いによって程度の差があるものの、先進国と言われる国々の中では日本が特にその傾向が強いと思われる。どうして日本人はこうも新しいものが好きになったのだろうか。

私の知る限り、欧米の先進国では古いものの価値もしっかり認めている。例えば家がある。古い家を手入れしながら何百年も使うことなど当たり前である。人によっては、購入した古い家を自分でリフォームして高く売ることも珍しくないという。大工仕事が得意な女性もたくさんいるようだ。かつて日本では、「日曜大工はお父さんの仕事」というのが常識であったが、そのお父さんも今や不器用で頼りにならない。ささいなことでも業者に依頼し、高い代金を支払うことになる。

私の分野、農業でも同じ現象がある。春先から初夏にかけて、「新ジャガ」、「新人参」、「新玉ねぎ」がスーパーに並ぶ。この「新・・・・・」というネーミングに私は違和感を覚える。どうも臭い。多くの、否、ほとんどの消費者は気づいていないかもしれないが、何か下心が透けて見える。

例えば、新人参。その名は何か良さそうな印象を与えるが、実際は逆である。日本では、産地が移動して、一年中どこかで人参が採れる。それらの中でも、夏から初秋にかけて種を蒔いた人参が冬人参で、これが終わり、晩秋から冬にかけて蒔いた人参が新人参と呼ばれ春から初夏にかけて出回る。この新人参は、冬人参よりも味も栄養もかなり落ちる。食べ比べると、まるで別物である。煮ても硬い。加えて、農薬の危険性も高いときている。冬人参よりも優れた点は何もない。にもかかわらず、「新人参」というネーミングに、つい手が出てしまう。

この例のように、本質的に劣るものでも、そのネーミングによってどうにでも人の印象を変えられる。その典型が「新・・・・・」である。本来は「新」である必要がないものでも、ただ儲けるためだけに、「新・・・・・」を考え出していることが実に多い。そのために、多大な労力と資金を費やしている。

さらに加えて、新しいものを加速度的に生み出す文明に大多数の人類が取り残されつつあるのではないだろうか。そして、取り残された人々は、貧困の連鎖に陥り、困窮の淵であえいでいるのではないだろうか。

(文責:鴇田 三芳)