人類が築いてきた文明には、際立った特徴がいくつかある。まず文明は、争いや戦争を引き起こし、無数の戦死者を礎に発達してきた。これは学校での歴史教育の中で、嫌というほど教えられる。二つ目は、農耕の普及によって自然をとめどなく破壊してきた。文明の興亡は、豊かな自然とその破壊の歴史でもあった。三つ目は、貨幣の発明と輸送手段の発達により、物を広範囲かつ容易に移動することができるようになった。コンピューターの出現以降、その勢いは加速する一方であり、豊かさの裏側にある物質文明の貪欲さがあらわになってきた。四つ目は、太古の文明は各地に点在しその接触や影響は限られていたが、蒸気機関を備えた外洋船によって一気に文明のグローバル化が進んできた。
そして、五つ目に機械化が挙げられよう。つねに文明は、いろいろの方法を考案し、生産効率の向上を追求してきた。なかでも、機械化がもっとも力を発揮してきた。産業革命以降、その傾向は急速に進み、今やコンピューターが機械を自動制御する時代になり、生産効率は桁違いの飛躍を見せている。そして、私たちの生活は機械なくして一時も立ちいかなくなった。
その機械化は、農業分野にも押し寄せてきた。欧米に比べて遅れていた日本でも、戦後の高度経済成長の波に押され、農村の隅々まで機械化が浸透した。かつて「農業は耕すことなり」と言われたが、今や「農業は機械を使うことなり」とでも言えようか。各種の機械なくして農業は成り
立たなく、人類の生存も農業機械なくして成り立たなくなっている。
そして機械化は、新たな職種を生む一方で、機械化しやすい職場から人を排除してきた。近い将来、車の運転は自動化され、私たちの生活を日々支えている流通網も大きく様変わりし、ドライバーが減っていくだろう。大容量の高速コンピューターが、膨大なデータを分析し判断業務を十分にこなせるようになり、オフィスの中間管理職員が激減するかもしれない。機械をうまく使いこなせる人が豊かになり、機械に負けた人が職を失い貧しくなる。そんな時代に突入しつつある。
では今後、農業分野は機械化の影響をどのように、どの程度受けるのだろうか。そのことを考える上で、アメリカ産ブロッコリーが示唆に富んでいる。空輸コストをかけても末端価格が100円前後ということは、農家の手取りは数十円であろう。そのブロッコリーの収穫の様子をテレビで見たことがあるが、広大な農地で中米からの移民たちがナイフを片手に黙々と収穫していた。農薬散布などに飛行機まで使っているアメリカで、ブロッコリーの収穫はコストのかさむ人手に頼っているのである。
トラクターなどの大型機械を衛星のナビを使って自動操縦する技術が開発されつつあるが、それが実現したところで、大した省力化にはならない。農業分野の機械化は行き着く所まですでに行き着き、野菜工場を除けば、機械化の余地はほとんどない、と私は思っている。少なくても日本では、一区画あたりの農地面積が狭く、また天候などの自然の影響を大きく受けるため、画一生産が難しい。したがって、これ以上の機械化を目指してもコスト的に合わないであろう。とりわけ、野菜や果物の収穫作業ではそうである。
多くの産業分野で機械に人が疎外され駆逐されかねない将来においても、農業分野は人の力に頼っていくであろう。だから、私は農業を選んだ。
(文責:鴇田 三芳)