第261話 真逆の世界

百姓雑話

暮れも押しつまり、寒さが身にしみる。農作業を終え家路につく頃は、もう真っ暗だ。畑の野菜たちは日暮れとともに凍りはじめる。澄み切った星空を見上げると、静寂のなかで無数の星々が輝き、きらびやかな都会の夜とは真逆の世界が広がっている。

そんな星空を見上げていると、30年もの時空をこえ、難民キャンプでの生活がよみがえってくる。そこ

砂漠の地平に日が落ちる頃、日没のオレンジ色から東の漆黒に美しいグラデーションが天空を染めあげる。残光を受けてキラキラ輝くスペース・シャトルが地平線をゆっくり弾道するのが見えたこともある。夜中に外へ出ると、天の川がくっきり浮かび、星あかりだけで周囲の景色が見える。人工の光に埋めつくされた日本では想像もつかない世界にすっぽり包まれる。

砂漠の地面に茣蓙(ござ)を敷き寝転んで夜空を見上げると、まるで自分が宇宙にぽっかり浮かんでいるような、そんな気になる。「きっと宇宙には生命の息づく星が数限りなくあり、自分もその無数の命の一つである」と、そんな確信を抱かせる静寂無辺の世界。

しかし、感動的なことばかりではなかった。覚醒効果のある草を噛みながら、現地スタッフがピストルを私の目の前でちらつかせ、「俺たちの給料を上げろ」と迫ってきたことがあった。また、門限を過ぎて町から宿舎に帰ろうとした時、難民キャンプを監視している兵士にライフル銃を向けられたことも。夜は非常に危険だ。そこは、まぎれもなく恐怖の世界でもある。

難民キャンプでは、人の死は日常的だ。栄養失調の子どもや老人は、風邪やちょっとした下痢くらいで、あっけなく亡くなってしまう。飢餓で亡くなる時、健康な人が眠りに落ちる時のように穏やかな表情のまま息絶える。それはまるで、現世の苦しみや悲しみがゆっくり浄化されていくようにも見えた。そこは、つねに生と死が背中あわせの世界。

さらに彼の地では、人の命がとても軽い。家畜のラクダと等価だ。現地スタッフが難民キャンプ内をランドクルーザーで走行中、寄って来た少女をひき殺してしまったことがある。そのスタッフは、私たち日本人の倫理観などまったく意に介せず、「あの少女は、あの地で、あの時、死ぬ運命だった。アラーがそう召されたのだから、仕方ない」の一点張り。神の教えが日常の隅々まで浸透している。結局、現地のしきたりに従い、ラクダ数頭に相当する少額の慰謝料だけで済ませた。「人一人の命は地球より重い」などという西洋哲学に根ざした人間中心の死生観など、まったく通用しない世界。

ある時、難民キャンプの周辺で遊牧生活を送っている地元民に聞いてみた。「電気も水道も病院も、学校もない砂漠地帯でなぜ暮らしているのか?」と。この問いは「都会に住みたいが、仕方ない」という答えを期待していたものだ。しかし、彼らの答えは意外であった。「都会には蚊がいて、マラリアで死んでしまう。だから、蚊のいない砂漠がいい」と。 そこは、限りない欲望に犯された文明とは程遠い世界。

かつて人類は、世界各地に文明を築いた。それらの文明は、交易や戦争などで接触はあったものの、その多くは独自の文明を保っていたらしい。しかし今や、巨大津波のような西洋文明が世界の隅々までのみこみつつある。近世以前に人類が経験したこともない破壊力に圧倒され、ほとんどの人類は「世界は一つ」という信仰と現実を受け入れている。

その世界では、お金がすべてと思い込まされ、四六時中コンピューターとカメラに監視され、忙しさに追われ、心も体も病に冒され、死の恐怖におののき、苦闘する日々が続く。こんな単一化された文明に収斂してしまった人類は、はたして長く生存し続けるのだろうか。お金と物と時間と情報に支配された現代文明とは真逆の世界を体験した私には、人類は自滅の道を爆走しているとしか思えない。

(文責:鴇田 三芳)