第174話 学ぶ(1)

百姓雑話

 

学びの春が来た。

よく通る道沿いに小学校があり、ピカピカのランドセルを背負った子どもたちが、親に手を引かれ、ぞくぞくと校門をくぐっていった。よく見れば、どの子も同じような表情をしていない。楽しさを全身で表わしている子もいれば緊張ぎみの子どももいる。母親の手をしっかり握っている子もいれば他の子と手を結んでいる子もいる。それぞれの性格と育ち方の違いが素直に現われているようだ。

還暦を過ぎた私でも、小学校から高校までの入学式は鮮明に憶えている。桜の咲くなかを新鮮な気持ちで初登校した、あの日のことを。緊張感と不安と、根拠に乏しい希望を胸に校門をくぐった。車をとめピカピカの小さい新入生たちを見ていたら、叶うことならあの頃に戻り、はっきりとした「学びの自覚」を胸に、もう一度学び直したいと思ってしまった。

私は、明確な「学びの自覚」を持たないまま、大学まで卒業してしまった。卒業に必要な最小限の単位をどうにかとれば、学校の推薦で就職など楽にできた時代であったので、勉強は二の次であった。今の若者には想像もつかない気楽な大学生活であった。老いてから思い返すと、貴重な青春期を無駄にしたことに気づかされた。もちろん、手遅れである。この後悔がとても根深いためか、この歳になってもときどき、単位が取れず大学を卒業できない夢にうなされる。いわゆるトラウマかもしれない

このトラウマが原因なのか、「人はなぜ学ぶのか」とか「何をどう学べば良いのか」などと私は考えてきた。そして、還暦を過ぎ老いの領域に片足を突っ込んだ今でも、社会の動きや周囲の人たちの言動に接するにつけ、これらの疑問が脳内で沸騰する。

今さら私が言うまでもなく、もとより人は学ぶ生物である。学ばなければ生きていけない。学びを怠ったり、年齢や立場を理由に学びを放棄すれば、ただただ時の流れともに老いていくだけで、主体的に明日を切り拓いていくことは難しい。現実は甘くない。

また人間は、現存のいかなるコンピューターよりも優れた脳を持って生まれてくる。しかし、生きていく中で膨大な量の情報を取り込みながら、それと同時に思考回路――――コンピューターで言えば、ソフト――――を複雑に編み上げていかなければならない。それこそが学ぶ行為である。

このように学ぶことの必要性や道筋を考えたところで、実際にはもう一つ重要な問題が残る。それは、「何をどう学べば良いのか」という具体的な行動である。やみくもに知識を詰め込んだところで、学校の試験の成績が良くなることはあっても、人生の糧とするには非常に効率が悪い行為である。

(文責:鴇田 三芳)