第137話 サバイバル・キャンプ

百姓雑話

長い梅雨が明け、とにかく暑い。しかし、草食系の私にとっては、植物と同じように、光と熱気に満ちた夏は最高である。

これから農場では、とにかく夏野菜が毎日たくさん採れる。その収穫のあい間をぬって、秋冬野菜を作付けていく。すでにサニーレタス、いんげん、人参、キャベツ、レタス、ブロッコリーの種をまき始めた。ブロッコリーは5日ごとにまく。中旬を過ぎると、春菊、白菜、大根、小松菜、ルッコラ、かぶ、タアサイ、ほうれん草と続く。体調管理に気をつけつつ、早朝から夜までフルに働く。この間に台風でも来ようもんなら、寝る間を削ってでも必死に対策しなければならない。肉体的にはとても辛いが、還暦を過ぎた今でも生きている実感がグングン湧いてくる季節である。

ところで私は、この一番忙しい季節に3日間だけでも、農作業を休みたいと昔から思ってきた。しかし残念ながら、未だに実現していない。わが子が小さい頃から思ってきたのだから、かれこれ20年数来の悲願である。農作業を休むと言っても、家で休養するわけではない。10名くらいの子どもたちを対象にサバイバル・キャンプを開催したいのである。「お泊まり会」などという生やさしいものではない。その名のとおり、事前に大人がほとんど何も用意しておかないキャンプである。

集まった子どもたちは、まず水と食料の確保から始めなければならない。慣れない水を飲んで下痢をするかもしれない。次にトイレと寝床を作る。ガスも電気もないので、もちろん煮炊きの火は自分たちでおこす。知恵を出し合い、協力しなければ、不便さとひもじい思いにさいなまれる。注意を怠れば、危険なことに巻き込まれる。命を落とす可能性もある。まさに、ほとんどの親が続けてきた子育て方法とは真逆であり、現代社会と対極にあるキャンプである。

なぜサバイバル・キャンプかと言えば、不便な体験は人を賢くし、忍耐力を養うからである。ひもじい体験は食べ物の有難さを実感させるからである。危険な体験は、命の何たるかを考えさせ、用心深い人間にするからである。初めて会った人と協力し合い生き抜く体験は奪い合うことの愚かさを悟らせるからである。くたくたに疲れ、慣れない寝床に就き、漆黒の空から降ってきそうな星々を眺めながら、子どもたちは強烈な体験を胸に焼きつけていくだろう。

そして、このようなキャンプを何度か体験した子どもたちが大人になった時、きっと戦争などしない人間になっている、と私は確信している。「戦争は悲惨だ。決してやってはいけない」と何度親が言い聞かせても、あるいは先生が授業の一環として、「核兵器が世界中にあふれ、経済がグローバル化し、いろいろの民族が一緒に住んでいる時代になったのだから、戦争しても勝者はいない。みんな敗者になるしかない」と論理的に教えたところで、ほとんどの子どもは心から理解することはないだろう。生きていくうえで本当に大事なことは、自らの体験からしか学べないのである。

真夏の暑さとは桁違いの灼熱が広島と長崎を焼きつくした、この時期になると、私はいつもこんなことを思う。

(文責:鴇田 三芳)