活気と狂気は、本質的にはまったく異質なものですが、なぜか紙一重、あるいは表裏一体になりがちです。
例えば、ヒットラーと彼が率いるナチス・ドイツがそうでした。彼は、聞く人を陶酔させるような演説と強引なリーダー・シップで、疲弊しきった経済を急速に回復させ失業者を減らし、活気に満ちた社会を実現しました。しかし、ほどなく独裁者と化し、人々を狂気に陥れて、2度目の世界大戦へと突き進んでいきました。また、1970年代後半、ポルポト政権下のカンボジアで、知識人階級を中心に数百万人もの人々が虐殺された経緯も似たり寄ったりです。
日本も何度か同じ轍(てつ)を踏んできました。明治維新後、経済、軍事、文化などにおいてアジアでもっとも早くヨーロッパ文明に追いつき、活気に満ちあふれた社会を一気に作り上げました。しかし、何度も人類が繰り返してきたように、活気を狂気へと変容させました。都会は華やかににぎわい、戦勝祝いのちょうちん行列が続き、「万歳!万歳!」と笑顔で若者を戦地に送り出すうちに、人々の心は狂気に酔うようになって、悲惨な敗戦へと突き進んでしまいました。
戦後の右肩上がりの経済にうぬぼれ、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とおだてられ、90年代初めにかけてのバブル経済に酔いしれた時も同じです。後から冷静に振り返れば、狂気の沙汰と思えることですが・・・・・・。
そして今、かつて日本が歩んだ同じ道を中国が爆走しています。そのバブル経済がはじければ、日本の時とは比べものにならないほど、世界中に深刻な影響を及ぼすでしょう。
いつの世でも活気は、ほどほどの状態を逸脱し、狂気に変容してきました。
ではなぜ、そうなってしまうのでしょうか。
ある時ふっと、「・・・・さんま」のトーク・ショー番組を見て、思いました。「人は多分、仮に活気が表面的であれ、時にはその根底に悪意が潜んでいても、その活気に目を向け魅了されてしまう本性を持っているのかも知れない」と。その本性は一方で、生きる原動力にもなっているのかも知れませんが。
それなら、「どうすれば活気を狂気に変容させないか」ということが課題になります。
その方法のひとつとして私が思いつくのは、やはり教育です。戦前の日本の皇国教育で「天皇は現人神(あらひとがみ)」とあがめられ、実にたくさんの若者が「天皇陛下、万歳」と叫びながら玉砕しました。1990年代の中国では徹底的な反日教育が行なわれ、その結果として今の日中の緊張関係があります。ナチス・ドイツのユダヤ人の虐殺、ポルポト政権による虐殺、ユーゴスラビアの独裁者チャウシェスクによる恐怖政治、アフリカ各地で今も戦闘に参加している少年兵、北朝鮮の暴走、・・・・・・・。すべてが教育の結果なのです。
子どもは教育でどうにでもなってしまいます。だからこそ、活気と狂気の間にあるジレンマを乗り越えるには教育が重要と思えてなりません。
(文責:鴇田 三芳)