第262話 いのちをつなげる

百姓雑話

大人の体は、約60兆個の細胞からなっているという。体に共生している微生物も含めれば、その何倍もの生き物の集合体が一人の人間と考えることもできる。一人の人間の体そのものが一つの銀河系のようなものである。

もとより動物は、植物のように無機物から有機物を合成することはできないので、他の生き物を食べるしか生きる術がない。もちろん人間も例外ではなく、その数百兆ものいのちをつなげるために、私たちは日々休むことなく無数のいのちを頂いている。生き続けるということは、つまりは無数のいのちの殺生の連続なのである。

農家に生まれ育った私は、玉子をあまり産まなくなった鶏を父が庭先で殺すのを何度も目撃した。両足を吊るし、首を握り一気に包丁で頭を切り落とす。鮮血がどっと吹き出る。それでも、数十秒はバタバタと暴れる。その光景が今でも眼底に焼き付いていて、頭では「生きるための殺生だから仕方ない」と分かっていても、鶏肉を好きになれない。年のせいもあってか、この頃は豚や牛の肉も違和感を覚えることがある。

戦後の日本は、経済を急速に成長させ社会を複雑に分業化してきた。その陰で農業を切り捨て、食料輸入に大きく依存する道を選んだ。ほとんどの食べ物をスーパーなどで買うようになり、食料の生産現場をまったく知らない人たちが大多数になってしまった。ましてや、家畜の屠殺現場を知る人など極めて稀な存在に違いない。

だから、今どきの若者に、「いのちを人はどうやってつなげているのか?」と尋ねれば、ほとんどの人は「親から子へ、子から孫へとつないでいく」と答えるだろう。この答えは、けっして間違っていないが、「生き続けることは無数のいのちの殺生の連続」という生の本質から考えると、かなり的はずれと私は思う。

「なぜこういう答えが返ってくるのか」という問いの答えは簡単である。日本の自給率が減るのと反比例し、いのちの原型をとどめていない加工食品が急増し食卓の主役になったからである。生き物を食べているという意識を持ちにくくなるのは無理もない。当然のことながら、食べる前に「頂きます」と言うことすら忘れ去り、言ったところで、何を頂くのか意識しない人たちが圧倒的多数のような気がしてならない。

食べ物を供給する側にもたくさんの問題がある。今や、商店街の八百屋や魚屋がほとんどなくなり、小ぎれいなスーパーで加工された魚や野菜が売られている。そこで販売している店員には、「自分たち人間と同等のいのちを売買し、その無数のいのちでお客のいのちをつないでいる」という意識などサラサラないだろう。

人類の未来を想う時、膨大な研究や難しい理論を駆使するまでもなく、早朝の飲食店街に行けば垣間見ることができる。そこには、食べられるのに捨てられた食べ物が山と積まれ、カラスたちが我が物顔で漁っている。そして、カーカーという会話の中で、「大事な食べ物を粗末にするようなアイツラは俺たちよりも長く生存できやしないよなー」とでも言っているようである。

(文責:鴇田 三芳)