第278話 愚公移山

百姓雑話

農作業には何種類もの作業がある。ざっと数えただけでも、七つや八つはある。それらの作業を大きく分ければ、栽培、収穫荷造りの2種類になる。どちらの作業も、はた目には簡単そうに見えるが、実際にやってみると初心者にはかなり難しい。体と頭を総動員しても、なかなか素早くかつ正確にこなせない。前話で述べたように、農業で生き残るには薄利多売が不可欠のため、作業の素早さがものをいう。

それでも、何年も続けていると作業に慣れ、個人差は多少あるものの、大方の人は普通にできるようになる。そうなると脳は、フルに働かなくてもよくなり、ほっとする。

その一方で脳は、「こんな単純作業はつまんねーなー。自分はもっと難しいことができるのに、・・・・・」と不満を抱き始める。いわゆる「知的好奇心」が満たされない状態に耐えられなくなるのである。

この現象は、仕事の内容や個人差によって程度は異なるものの、誰にでも起こりえる。脳が発達した人間の宿命かもしれない。まったく人の脳は、わがままである。

しかし、だからと言って、単純作業をあっさり放棄できるほど、仕事は甘くない。何とか続けなければ、たやすく失業してしまう。よほど頭脳労働に偏った仕事でもない限り、仕事に単純労働はつきものである。

どうせ単純作業をやらなければならないなら、楽しむのが難しくても、せめて苦痛と思わないようにしたい。

それには、何らかの価値を単純作業に見つけることである。もっとも一般的な価値は、もちろん「お金」である。ほとんどの人は、お金のためなら単純作業に耐えられる。「お金」の他にも、自己満足、自己実現、他者への貢献、健康増進などなど、多種多様な価値を見つけられる。

好きとか嫌いとかに関係なく、そもそも生きるということは単純な行為の繰り返しなのである。起床して、排便して、洗顔して、食事して、歯磨きして、お金を稼ぐために仕事して、あるいは家事をして、息抜きして、時には趣味に興じて、・・・・・・、そして、眠る。これらのほぼすべてが単純作業である。そのつど意識しなくても、これらの行為を毎日続けながら、私たちは生きている。脳が極端に発達していると自認している人間だが、日常行なっていることは他の生物と大差がない。

毎日毎日、時々刻々、たんたんと単純作業を繰り返すことで最高の価値、すなわち「生き続ける」という価値を生み出し、それを継続できるのである。

けっして単純作業をないがしろにはできない。

(文責:鴇田 三芳)