ハウス栽培であれば雨の影響を受けないのだが、露地栽培はお天気次第である。雨でぬかるんだ泥に足をとられ、カッパの中を汗が流れ落ちる。収穫した野菜は泥で汚れ洗わなければならなくなる。そんな辛い作業の最中に、「こんな雨がエチオピアのアビシニア高原にも降っていたら、あんな飢餓は起きなかったろうに」と思い出すことがある。今から30年ほど前の1980年代初頭のことである。
中高年の方なら、あの世界的なイベントはご記憶であろう。著名なミュージシャンたちが「バンド・エイド」というというユニットを結成し、「We are the world」という歌をヒットさせたことを。それはエチオピアの飢餓民を救援するためであった。
ソロモン王とシバの女王の末裔(まつえい)と自認する、誇り高いエチオピアの人々を深刻な飢餓が襲った原因は、異常気象と社会主義政権であったと言われている。1974年の軍事クーデターによって権力を掌握した社会主義政権は、農民による農地の所有を認めず、国が貸す制度を導入した。実際の権限は地方レベルにあり、地方の役人の悪行が農民の営農意欲を失わせ、農地は荒廃の一途をたどっていったと聞いている。例えば、農民がわが子へと代変わりする際、それまで大事に使ってきた農地を必ずしも引き継げないという現実があった。そんなことでは、農民は農地を豊かにするはずがない。酷使し結局は荒野にしてしまった。社会主義あるいは共産主義政権の限界であったのかもしれない。
このような現実は、その当時のエチオピアに限らず、世界中いたるところで起きてきた。そして現在、中国の農村部でも同じようなことが起きているらしい。地方政府は、農民から農地を取り上げ、桁違いの値段で工業団地などの用地として売却して巨万の利益を得ているという。非農家の人は知らないだろうが、日本でも、以前から似たようなことが行なわれてきた。
話しを当時のエチオピアに戻そう。私は、日本のNGO(非政府組織)・日本国際ボランティアセンターの職員として、エチオピアの隣国・ソマリアでエチオピアから避難してきた難民への支援活動に従事していた。エチオピアで救援活動をしていた仲間からもたらされる情報や自分でも現地を視察した時に見た光景は今でも忘れることができない。大地の果てまでも見渡す限り干ばつと飢餓が続いていた。物質的に豊かな生活を普通に送ってきた私には筆舌に尽くしがたい光景であった。農地は荒廃し、農地以外の土地もほとんど何も生えていないのである。食料が底をつき、種まき用に貯蔵しておいた穀物までも食べ、それでも足りずに草も食べ、さらに毒を含んでいる草の根までも食べ尽くしてしまったからである。体に悪いとわかっていても、人は飢餓に耐えられないのである。
そのような、この世のものとは思えないような悲劇も飽食を当たり前と思っている人には想像しがたいだろうが、現代でも人口爆発と異常気象、そして格差社会を背景とした飢餓が貧しい人々を日常的に襲っている。格安のレトルト食品やカップ麺でどうにか命をつなぐことと毒を含む草の根を食べて飢えをしのぐことと本質的には大差がないように私には思える。物質的に豊かな生活を送れている人は、物質的に貧しい人々の飢餓を土台にして生きている現実から目をそむけてはいけないのである。豊かな生活を送れているのは、才能や努力によるところもあろうが、ほとんど運なのだから。
(文責:鴇田 三芳)