第301話 修理

百姓雑話

「トキタさーん、このポンコツ車、もう廃車にしたら。みっともないよ」と、近所のA氏に言われることがある。A氏は、私が農地を入手する際に、親身になってお世話してくださった元農業委員で、現在は市会議員をなさっておられる方である。もちろん、農家としても現役で、息子さんご夫婦とともに営農されている。

指摘されるように、何しろ18万km以上も乗った軽バンだから、あちこちにガタがきている。後部スライド・ドアやバック・ドアは思いっきり閉めないと閉まらない。そのためか、開ける時にドア・ノブが壊れたこともある。パワー・ウィンドウのスイッチは気まぐれで、車体はあちこちに凹みと傷があり、バンパーとテール・ランプはガム・テープで脱落を防いでいる。こんな状態で、よくも車検が通るものだと感心している。半年ほど前には、肝心のエンジンに寿命がきて、中古のエンジンと交換した。工賃込みで10万円ほど。

確かに、長い目で見れば、ポンコツ車を修理しながら乗るより新車に換えた方が安くつくだろう。新車であれば、突然の故障による仕事の停滞もない。どう考えても、ポンコツ車を乗り続けるのは経済的合理性に反する。

話しは変わって、私の旧友の仕事について触れたい。彼とは高校から大学まで同じで、皆生農園のホーム・ページの管理をお願いしている。オリンパスを早期退職し、ホーム・ページやウェブ・サイトの制作などを行なう会社を経営する一方で、月に3~4回は滋賀県にある研究施設に出向き、トンネルなどの目に見えないコンクリート亀裂を瞬時に発見する装置を開発している。

言うまでもなく、現代文明を象徴する物の一つは鉄筋コンクリート建造物である。日本では、戦後の廃墟にビルや橋、トンネルなどの鉄筋コンクリートの建造物を造り続けてきた。10年数前からの中国が同じ状況である。3年ほど前に、上海に家族旅行してきたが、見渡すかぎり林立する高層ビル群を見て、驚くとともに、嘆かわしい将来も見え隠れして仕方がなかった。

人が造ったものは、いずれは朽ち、遅かれ早かれ壊れる。コンクリート建造物も例外ではない。壊れないまでも老朽化すれば、撤去して新しく造り換えるか、修理してさらに長く使い続けるか、あるいは放棄して時とともに朽ち果てるを待つか、その3つの選択しかない。カンボジアのアンコール・ワット遺跡やインドネシアのボロブドゥール遺跡などは、そこで栄えた文明とともに、廃棄され人々から見捨てられたものだろう。

先週18日に65歳の高齢者となった自分は、あちこちに歳相応のガタがきている。今年はすでに3度も大病院にお世話になった。18万kmも乗った相棒のポンコツ車と同じである。

そんな老化のためか、あるいは高度経済成長の真っただ中を生きてきた者の反省からか、私は「修理しながらでも、物を大切に長く使い続けよう」と肝に銘じている。たとえ経済的合理性を逸脱しても、できるだけそんな生き方を続けたい。まさにそれは、たった一つしかない自分の命を大切に長らえるのと同義なのであるから。

(文責:鴇田 三芳)