去る3日、台風並みの暴風で目も開けられないほどの土埃が吹き荒れた。研修生2名とともに強風対策をしながら、ふっと20年数前の体験を思い出した。
1985年10月、私は難民救援団体のスタッフとして難民キャンプに赴いた。場所は、アフリカ北東部の辺境ソマリア。そのまた辺境の地ルーク。着任した直後、ある事故が起きた。現地人スタッフのトップが車を運転中に難民の少女を引き殺してしまった。「少女が急に飛び出してきたので仕方ない。慣習に従い賠償したので、もう何も問題ない。」というのが彼の言い分だった。私たちから見たら、きわめて安い賠償値段だった。「あの少女は、あの場所で、あの時刻に、あの事故であの世に逝く運命だった。私はこの地の伝統的な方法で責任をとっており、何ら処罰を受ける筋合いはない。」と彼は譲らなかった。
ところが、現場に居合わせた人々に聞くと、どうも彼に過失があったようで、日本人スタッフの間で議論になった。仕事に疲れた体をおして、私たち日本人スタッフは命の重さをめぐる議論を何夜も続けた。彼に何らかの処罰を与えるべきだという意見が主流であったが、現場責任者は当地の習慣に従った解決方法で良いと一貫して主張した。
後から想えば、事故者当人の主張の根底には伝統的な宗教感があった。赴任したばかりの私は、日本社会の価値観や倫理観などに支配されていて、彼の主張に強い違和感を覚えたのうだろう。この一件は、その後も私を悩ませたカルチャー・ギャップの一つであった。
あれから四半世紀近くの月日がたち、数々の失敗と過ちを重ね多くの人々と出会ってきた今なら、彼の主張を理解できる気がする。そしてもう一つ、あの事件を契機に学んだことがある。「現実世界では、命の重さに絶対などということはない。悲しいかな、相対的である。」ということを。
私は収穫した野菜という命に値段をつけ販売するという現実の中で生きている。
(文責:鴇田 三芳)