第236話 尊厳

百姓雑話

「尊厳とはどういうことですか? 尊厳が守られているとはどういう状態のことですか?」などと問われて、さっと分かりやすく答えるのは簡単ではないでしょう。それは多分、大多数の日本人が、まじめに働いていれば生きていけるため、日々の生活の中で「尊厳は?」と改めて問う必要がないからかもしれません。

今話は、前話「買う側の都合、売る側の都合」の続きで、尊厳について私なりの思うところを述べようと思います。そもそも、「尊厳」という概念を人類が抱くようになったのは、そう古いことではないでしょう。明治以前の日本では、身分制度が厳然とあり、個人の尊厳が一般化しにくい社会でした。もしかすると、そんな概念さえなかったのかもしれません。事と次第によっては、「無礼者めが!」と武士が庶民を簡単に切り捨てられた時代です。

誰でも自己の尊厳を主張できるようになったのは、太平洋戦争に敗れてからです。しかしそれでも、「個人の尊厳がその後も十分に守られているとは言えない」、そう私は思っています。例えば、前話であげた「トヨタ」。下請会社から部品を買う時も、お客に車を売る時も、巨大企業トヨタが価格決定権を握っていて、他社や他者を明らかにトヨタの決定に追従するしかありません。トヨタ本体が何兆円もの営業利益を上げ自社の社員にボーナスを大盤振る舞いすることはあっても、底辺の中小企業では明日をも知れない経営が続いています。「トヨタの膨大な利益を価格値引きに還元してくれ」とお客が言っても無駄な抵抗になってしまいます。そこには、トヨタという巨大企業を頂点とするピラミッド構造が厳然と存在しています。

このトヨタに代表される経済活動の中に個人の尊厳がどれほど守られているか私は疑問を抱いています。尊厳への抑圧も見えてしまいます。経済的な力関係が、そのまま人間関係の上下関係へと置き換えられ、下位の者がいくら努力してもその関係が容易に改善されることはありません。ひとたび正社員から落ちこぼれ非正規労働者になったら、本人の希望に関係なくその立場・地位が固定化してしまいます。

こんな労働環境が「現代版身分制度」のように私には思えてなりません。合法であっても、「個人の尊厳」という視点から見ると、深い疑問を感じざるをえません。

こんな社会現象を斜めから眺めていると、尊厳の姿がおぼろげに見えてきます。哲学的な難解用語を避け、平易な言葉で表すと、「誰もが対等で、誰でも自分のしたいことを最終的には自分で決められること」と私は思うのですが・・・・・・・・。

(文責:鴇田 三芳)