第24話 小麦粉まじりの砂

百姓雑話

日本は豊かである。本当に住みよい国である。この国に、この時代に暮らせたことは何よりの幸せである。

世間では、日本は資源小国であると嘆く人が多い。とんでもない誤認識である。気候が穏やかで森林に恵まれ水に困らない我が国は資源大国である。電気、水道、ガス、通信網、交通手段などのインフラも隅々まで完備している。これらも立派な資源である。

また、一億以上もの人々が住む国としては、社会状況も素晴らしい国である。民主主義が保障され、治安もすこぶる良い。デフレで就職難と騒がれているが、職種と職場を選り好みしなければ、職に溢れることはない。食べたい食材がいつでも手に入るだけでなく、都会に出れば世界中の料理を手軽に堪能できる。そして何より、電話一本で救急車やドクターヘリが飛んでくる。

途上国と言われる国々を、それも紛争や旱魃などで苦しむ地域で暮らした私の、これが偽らざる実感である。私は、1985年から約1年間、砂漠地帯の難民キャンプで上記の豊かさとは正反対の生活をおくった。まともな病院も医療関係者もいない難民キャンプに赴任し直後、虫垂炎で亡くなったスタッフもいたと聴いて、片足を棺桶に突っ込んだ気がした。案の定、常に死と背中合わせであった。彼の地での体験を語れば尽きないが、ひとことで言えば人生の転換点になった1年であった。

今でも目を閉じると、彼の地で目にした光景が鮮やかにフラッシュ・バックしてくる。なかでも、食糧配給の時に目撃した光景は強烈であった。地面にこぼれた小麦粉を子どもたちが奪い合うのである。砂が混ざった小麦粉というよりも、小麦粉の混ざった砂までもかき集める子どもたち。それを水に入れ上澄みを煮立ててスープのようにして飲むのである。貨幣経済と飽食にどっぷり浸かってしまった先進国の人々の目には、多分、醜い光景と映るであろう。

しかし私には、食べられる食物を安易に捨てる先進国の人々の方がはるかに醜く見える。日本では、飢えから解放されて半世紀そこそこしかたっていないというのに、年間2000万トンもの食料が捨てられているそうだ。国内米の生産量が800万トンなので、その2.5倍の量である。捨てられた食料のほとんどは行政機関などが集め燃やし、大気を汚染している。おまけに高いコストをかけている。愚かな所業だ。私たち先進国の人間が飽食を欲しいままにできる、その裏側には飢えに苦しむ多くの民がいることをどれほどの日本人が意識しているだろうか。マクドナルドでは焼いて10分たったハンバーグは廃棄すると聞いたことがある。まさに飽食文化の極みで、天に向かって唾する行為である。

その一方で、路上生活者のなかには、捨てられた食べ物で命をつなげている人々もいる。物に溢れた生活を奪われた人々。あるいは浮き世を離れ仙人のような生活を自ら選んだ人もいるであろう。きわめて質素な狭い生活空間で、ひっそりと命の火を灯している人々である。彼らは社会的な発言力に乏しい。がしかし、その生き方をとおして、進み過ぎた物質文明に警告を発し、飽和状態になった人類が歩むべき新たな道を暗示しているような気がしてならない。

(文責:鴇田  三芳)