第26話 誰にでもできる3つの平和貢献(1)

百姓雑話

平和貢献と言うと、国がするもの、特別な人ができるもの、生活に余裕があり自己犠牲をいとわない人がすること、などと受け止められがちである。しかし、想像力を働かせ日々の生活を見つめ直すと、誰にでもできる平和貢献がいくつもある。

ところで、半世紀ほど前、いわゆる60年安保闘争が激しくうねった。その闘争が希求したことの一つは平和であったようだ。強大な国力にものをいわせ、フランスに代わってアメリカがインドシナ地域に軍事介入し、インドシナ戦争が激化し始めた時期でもあった。まだ幼かった私でも、伝えられるニュースから漠然とではあるが、平和を意識した。

それが今や、国家財政の危機だ、年金だ、消費税だ、為替だ、就職だ、などと経済問題が人々の最大の関心事になり、あの闘争の面影さえも遠い記憶の彼方に消え入りそうである。多くの日本人は、あるいはほとんどの日本人が、アメリカの傘の下で平和ボケし、平和を意識しない日常をおくっている。その裏側には、血を血で洗う戦闘が日常化し、あるいは極度の貧困のために、平和を意識できない無数の人々がいる。そんな現実を遠く感じさせる日本では、平和という概念さえも希薄になってしまったのだろうか。

しかし今、人類がその生存をかけて本気で実行しなければならないことは、環境問題への対応、行き過ぎた貨幣経済の是正、そして平和への歩みであると私は思っている。どの課題の解決策も、漠然とした概念や難しい理屈の先にあるのではなく、いつも日々の生活の中に、そして誰の前にも開けているような気がする。

そのひとつが、昔から健康に良いと言われてきた早寝早起きである。人間の生理に合った生き方や働き方ができるだけでなく、電気文明にどっぷり依存している現代において電気の消費を減らすことは、環境問題への対応に始まり、めぐりめぐって平和への歩みに貢献すると私は確信している。だから私は、わが子が幼い頃から、「電気の先には危険な原発がある。節電しなさい」と事あるごとに言って聞かせてきた。原発に依存していれば、チェルノブイリやスリーマイル島での事故のように、いつか日本でも原発事故があるかもしれないと危惧していたからだ。

それが、数百年に一度の津波が原因とはいえ、やはり現実になってしまった。あの事故で、広大な面積の大地と海洋が汚染され、どれほど多くの人々の平和な日常生活と大事な家族が理不尽に奪われてしまったことか。その多大な犠牲を教訓に、やっと国民の多くが節電を意識し始めている。今を逃しては、多分、もう日本人のライフ・スタイルに大きな変化が訪れることはなく、平和への道も閉ざされてしまうかもしれない。

日本は、上記の課題の他にも、急速に進む少子高齢化、国家財政の危機、長引くデフレ経済などの課題に直面し、人類史の観点からも、今もっとも世界に注目されている。

先週21日は夏至であった。4時過ぎには北東の空が白み始める。私は、年のせいか、雨戸もカーテンも使っていないからか、何時に寝ても日の出とともに目が覚めてしまう。若い頃から夜更し朝寝坊の私でも、ただそれだけで早起きできるようになった。特に難しくはない。

(文責:鴇田  三芳)