第31話 誰にでもできる3つの平和貢献(2)

百姓雑話

9億2500万人。この数字をごぞんじだろうか。2010年、国連機関のWFPが公表した世界の飢餓人口である。人類の1割以上の人々が飢餓状態にあるという。

その一方で、飽食のために太りすぎ、ダイエットに時間と費用と労力を惜しみなくついやす人々が非常にたくさんいる。日本人も例外ではなく、敗戦直後まで続いた窮乏生活は遠い記憶のかなたに置き忘れてしまったようだ。「飢餓」という言葉さえも今はほとんど死語になっている。

ところで、人類は戦争や争いごとをくり返してきた。かつて日本人もアジアの国々を何度も侵略した。歴史の教科書をひらくと、戦争や争いごと、権力闘争などにほとんどのページをさき、平和な時代の庶民の生活や大衆文化などはわずかに記述されているだけである。なぜ人類は、かくも頻繁に戦争や紛争をおこすのだろうか。そんな過ちをなぜくり返したのだろうか。

私はみずから選んで曲がりくねった人生を歩んできた。そこから得られた体験と、その時々の見聞から、「戦争や争いごとの根源的な理由は食べ物と憎しみである」と思っている。このような認識にたち、今回は食べ物に焦点をあわせ「誰にでもできる平和貢献」をあげてみたい。

その平和貢献は、日々の食生活にあるような気がする。ごく単純なこと、簡単なことである。「良く噛んで食べ、食べ物を無駄にせず、腹八分で満足する。」 ただそれだけである。できれば、「間食をせず、決まった時刻に食事し、食後はゆっくり休む」ことも実践すると、平和貢献度はグンと上がる。これらの食習慣によって、経済力の強い人々が消費する食料が減り、おのずと飢餓人口が減る。もちろん健康上も良いはずである。もっと言えば、「頂いた命を無駄なく最大限に活かすことによって、食物連鎖の頂点に立つ生き物としての品格が保たれる」と私は思っている。このことは、百獣の王・ライオンを見れば理解していただけよう。ライオンは空腹になった時のみ狩りをし、お腹が満たされれば、のんびり生きている。これが、食物連鎖の頂点に立つ生き物の義務であり、生き方であり、品格というものではないだろうか。

江戸時代の武士は、士農工商という身分制度の頂点に立ちながらも、「武士は喰わねど、高楊枝」と言ったそうだ。やせ我慢や負け惜しみもあったのだろうが、潔さも感じられるではないか。

(文責:鴇田 三芳)