第282話 驚きと感動

百姓雑話

50歳を過ぎた頃から、物忘れが多くなってきた。ボケの前兆現象かもしれないと恐れ、その頃からボケ防止のために極力メモを取らないようにしてきた。だから、しょっちゅう困り事がおき、周りの人によく迷惑をかけてしまう。それでも時には、「忘れたことに気づくのだから、まだボケちゃいないな」と妙に安心したりもする。

老化現象は、何も物忘ればかりではない。驚きと感動が減ることも老化現象のひとつである。いわば、心が錆びつくのである。もしかすると、こちらの方が重大事かもしれない。特に男性のほうが、物事を論理的に考える習性が強いためか感情を抑えやすく、驚きや感動の機会が激減しやすいように思える。

子どもの頃は私も、好奇心にあふれ見るもの聞くものに驚き感動し、きっと周囲の人たちに「どうして?」と質問を連発していたのだろう。きっと、それこそが学びの原点だった。

しかし、脳細胞の分裂が止まり退化の一途をたどったためか、あるいは学校教育の影響か、いつ頃からか驚きと感動が減り始めた。周囲の友人や仕事仲間たちも似たり寄ったりであったので、これらの減少に違和感を抱かないまま私の青春期が過ぎていった。今から思えば、とりたてて好きでもないことに日常の大半を費やしていたので、脳は自然に拒否反応を示し、驚きと感動が減退したのだろう。

ところが、脱サラし農業を始めた頃から、脳が喜び活性化したようだ。それは、農作業がとても楽しく、「好きこそものの上手なれ」を日々実践できたからだ。

もちろん、独立し自分ですべての結果と責任を負うようになると、非常に厳しい現実が待っていた。農業を始めるにあたり、農薬を使わないことを目標にしたため、害虫と雑草にとことん打ちのめされ続けた。要するに、頭でっかちの未熟者が避けて通れない試練を受けただけなのである。

それでも、私は農業に就いて良かったと思っている。金銭には代えがたい驚きと感動の日々を送れたからだ。

(文責:鴇田 三芳)