第45話 男は女の付属物?(2)

百姓雑話

このシリーズの初回で、母の胎内で男児は女児から変わることにふれた。この話を発生学の教授から聴いた時、私は少なからずショックを受けたが、後々自分の生き方を大きく左右するとは思わなかった。

この話を聴いた翌年、友人に誘われ、私はタイの首都バンコクに単身渡航した。タイ国内に避難してきたカンボジア人とラオス人の難民を援助する民間団体で活動するためである。その組織は女性と男性が対等に話し活躍する民間団体(NGO)で、実質的なトップは星野昌子さんという女性であった。それまで日本で出会った女性とはまったく異なるタイプであった。彼女に出逢えなかったら、たぶん今の自分はなかったであろう。彼女に限らず、難民キャンプやバンコクには、男性中心の日本社会に飽き足らず、あるいは失望し、あるいは怒り、海外に活躍の場を求めてやってきた活動的な女性が実に多かった。

私はといえば、高校は男子高、大学も工学部のため女性はちらほら、会社では100名ほどの設計部門に雑用係の女性が一人だけ、という男社会を真っすぐ歩んできた。そのため、バンコクの民間団体では、自分の考えをはっきり主張する有能な女性たちに戸惑い圧倒される毎日であった。

またタイの社会では、当時の日本に比べ、はるかに女性が活躍していた。現地の人々に聞いた話では、大学生は女性の方が多く、医師や公務員も女性が非常に多いとのことであった。確かに、ほとんどの分野で女性が第一線でばりばり働いていた。その一方で、のんびり暮らしている男性をよく見かけた。たぶん、末娘が家督を相続し婿を取る伝統が残っていたためであろう。そんな伝統の影響からか、国民から敬愛され政府に大きな影響力を持っているプミポン国王の後継者も、王子ではなく、シリントーン王女がなるだろうと巷で言われていた。

そして、先の教授の話やタイでの新鮮で強烈な体験から、「女性中心の社会、組織、家族で良いではないか。しょせん、男は女の付属物なのだから」という考えにたどり着いた。その後、縁あって結婚した相手はフルタイムで働くキャリア・ウーマンである。子どもたちを保育園に送迎するのはほとんど私であった。妻は転勤族のため、父子家庭の時期もあった。子どもたちには辛い思い、寂しい思いをさせてしまったかもしれないが、あえて世間のほとんどの父親とは違う道を歩んできた男がいたことを将来の参考にしてもらえたら本望である。

最後に、友人のフリー・ジャーナリスト樫田秀樹さんから聞いた、ある日本女性の結婚話を紹介したい。その女性は、子育てに関心の薄い日本の地域社会や男性に見切りをつけ、時間がゆっくり流れるサラワクの村に移住し、現地の男性と一緒に子どもを育てる道を選んだという。現地に住んだことのある樫田さんの実感では、「村全体で子を育てるのが当たり前のサラワクの村では、子育ての苦労がゼロ」だそうである

(文責:鴇田 三芳)