カマキリの雌は雄を食べてしまう。この事実を知っている人は多いであろうが、その現場を目撃したことのある人は、あまり多くはないと思う。左の写真がそれで、交尾中に食べられたようである。子孫を残すだけでなく、自分の命を雌と子孫に捧げている現場である。しかし、昆虫学者によると、どうも雄には命を捧げる意図はないようである。雌は、身近にたまたま食べられそうな生き物がいれば、何であれ狩るのだという。つまり、喰われてしまった雄はただ単に運が悪いだけらしい。
そのカマキリを手で捕まえようとしても、まず逃げない。鋭い眼光でにらみつけ、鎌で威嚇する。一線を越えれば、迷わず鎌で攻撃してくる。さすが原野の戦士である。
ところで、たいぶ前だが、太平洋戦争を検証するNHKの特集番組を見たことがある。幼さが残る学徒動員兵が雨の神宮外苑競技場を行進し、女学生が国旗を振って鼓舞する様子がとても印象的であった。今やほとんどの日本人が体験したことのない、映像でしか見られない歴史の重要な一場面である。平和な時代であれば前途洋々の若者が、お国のため、家族のため、あるいは愛する妻子や恋人のために、自分の命を皇国の戦士として捧げることをどう正当化し、どう納得したのだろうか。
さて、平和が訪れた戦後、日本の男性はどう変わったのであろうか。私は本質的に何ら変わっていないと感じている。玄関先で手を振る妻に見送られ、社会のため、会社のため、あるいは妻子のために、自分の人生の大半を企業の戦士として捧げてきた。その結果、過労死や自殺に追い込まれる人々が数万単位でいる。「まるでカマキリの雄のようである」と言ったら言い過ぎだろうか。これも、「女の付属物」としての男の宿命なのだろうか。
されど、である。男が女の付属物として生き、時には愛する家族や妻子、あるいは恋人のために自己犠牲を払っても仕方ないが、得体のしれない組織や集団に操られて暴走したり、あるいは国家のために他国の戦場で尊い命を無駄にしてはいけない。先の見えないデフレが続き、なかなか明るい未来を思い描けない若い男性が非常にたくさんいるが、このことを是非とも心に留めてもらいたい。
かつて私は、紛争が続いていた東アフリカのソマリアにある難民キャンプにひとり旅立った。その時の心境は、今から思えば、あの学徒動員兵と相通ずるものがあったかもしれない。出発に先立ち、その意思を父母に打ち明けた時、強く反対された。父は「そんな危険な所にお前を送り出すために、田畑に這いつくばって働き大学まで出したつもりはない」と訴えた。その横で母は涙を流すだけで黙っていた。ただ母は、「こんなことなら産まなければ良かった」と父には何度も涙ながらに嘆いていたという。
自分も子を持ち、あの頃の両親と同じ年頃になり、やっと親の気持ちが少しは分かるようになった。いかなる理由であれ、自分の子どもがむざむざと死んで行くのを望む親などいないことを。ましてや、他国の戦地にわが子を喜んで送り出す親などいるはずがない。旗を振る、手を振る陰で普通の親は泣くのである。何度も日本は近隣諸国を侵略してきたが、いかなる理由であれ、もう繰り返してはいけない。
(文責:鴇田 三芳)