第284話 「0次元」的生き方

百姓雑話

飛行機雲皆生農園の上空をジェット旅客機が頻繁に飛行する。羽田空港に向け南下する便と成田空港を離陸した便が西方に向かって行く。特に南寄りの風が吹いている時は、羽田空港に向かう機が数分おきに飛んでいく。今年の2月には、写真のように、真っ白な飛行機雲を引きながら、3機が列状に飛行していた。

上空のジェット機を見上げ、「私は何次元の世界に生きているのだろうか」と自問することがよくある。

学校では、「人間は3次元空間と時間という座標の中で生きている」と教わったが、本当に私はそんな生き方をしているのだろうか。半径10kmほどの地域を毎日うろうろ動いている自分は、3次元空間に生きているどころか、はるか上空の大気圏外から見れば、ほとんど点でしかない。つまり空間的には、ほとんど「0次元」的生き方をしている。

時間的変化について考えてみても、これまた限りなくゼロに近いように思えてならない。毎日毎年ほとんど同じことを繰り返しているため、時間が過去から未来へと直線的に動いていることが実感しにくい。ぐるぐると小さな円を描きながら回っているだけのような気がすることが多々ある。もちろん実際は、季節が移ろい、一刻一刻新たな時間が流れ去り、そして、自分は老いていくのだが。

ところで、学校教育は、いったい何次元の世界なのだろうか。

中国の「科挙」という試験に代表されるように、中国文明の影響を受けた民族はペーパー試験で人の能力を判別する伝統がある。このペーパー試験で高得点を得たものが優秀とされる。そのためには、記憶力と要領の良さが決め手になる。思考力は二の次、三の次である。

日本も、もちろん例外ではない。そして、試験で試されることの多くは、「点」としての情報である。例えば、歴史の試験では「????年に?????が????をした。」「????を答えなさい。」というものである。

こういう試験は知識を育まない。化石化した単なる情報を記憶させるだけである。社会に出て、ほとんど役に立たない。本来、歴史は点ではなく、つまり「0次元」ではなく、少なくても空間的(2次元)にダイナミックに動いている。

知識とは、その字が示すように、知ったことを平面的に織り上げることである。決して、点として憶えることではない。

こんな視点で見ている私は、学歴などまったく気にしていない。

(文責:鴇田 三芳)