春夏秋冬。季節はめぐり、もう師走になってしまった。年間を通じて日暮れがもっとも早い時期となり、今年も終わりという実感がひしひしとこみ上げてくる。熟れた柿に群れていたヒヨドリはどこかに渡り、近くの沼や池にはカモなどが北方から渡ってきた。真っ赤に咲いた寒椿が木枯らしに耐え、モズの高鳴きが冬の到来を告げている。そうして季節は淡々とめぐり、自然の営みはくり返されてきたように見える。
しかし、就農以来26年、私にとって同じ年は一度もなかった。天候は毎年異なり、研修生や従業員などが来ては去っていった。そうこうするうちに、くり返せない人生の大半を使いはたしてしまった気がする。まるで、この時期の夕陽のようである。
ところで人類は、他の生物と比べ特異な脳を持ったがゆえに、幾度となく戦争をくり返してきた。そして、人がその過ちを語る時、まるで免罪符のように、「歴史はくり返すものだ」と口にする。あたかも、自然の営みがくり返されるがごとく、なかば諦め気味に語る。
確かに人は、歴史がくり返されることを暗黙のうちに受け入れている節がある。あるいは、くり返されることを切望している人々もたくさんいるようだ。株や不動産などに投資する人々は、価格の上下変動がくり返さないと儲けられない。軍需産業や死の商人もそうである。
古代エジプトでは、死によって肉体から魂が抜けた後も、精霊の仲立ちによって魂が肉体に戻ることもできると、そう信じられていたという。だから、魂が戻る時のために肉体をミイラ化し保存した。キリスト教ではキリストの復活が極めて重要な出来事であり、仏教では輪廻転生によって生まれ代わると説いている。宗教は命さえもくり返させることができる。命さえも。
しかし今にいたっては、人類は歴史をくり返せない状況にあると私には思えてならない。第二次世界大戦後の世界の歴史を見れば、そう思わざるを得ないのである。くり返せないほど大規模な、くり返せないほど不可思議な、くり返せないほど徹底的な、そして、くり返せないほど破滅的な状況に人類は直面しているのではないだろうか。
しかしそれでも、やはりこれからも歴史はくり返されるのだろうか。
仕事の手を休め枯草に腰を下ろし、遥か彼方の深い森に沈みゆく夕陽を眺めていると、そんな疑問が脳裏をよぎる。自分の余生には差ほど関係ないのかもしれないが。
(文責:鴇田 三芳)