「朽ちないことが善、朽ちるのは悪」と、つい思いがちである。
私たちの身の回りには朽ちないもの、あるいは朽ちにくいものが溢れている。例えば、錆びないステンレスやガラス、分解しないプラスティックや繊維製品、蛍光管に比べて桁違いに長持ちするLED、壊れにくい機械、耐震住宅、添加物づけで長期間保存できる加工食品、さらには不朽の名作、長寿願望など、数え上げたらきりがない。
ところで、光合成は誰もが中学校で習う。植物などが二酸化炭素(CO2)と水を材料に光エネルギーを使って行なう反応で、私たちの食べ物はほぼすべて光合成で作られた有機物に由来している。そしてやはり、光合成で植物などから排出された酸素を呼吸している。つまり、私たちの命は光合成に支えられているのである。
その光合成に不可欠な二酸化炭素が空気中にどれくらい含まれているかご存じだろうか。今でも金星が二酸化炭素の大気で覆われているように、太古の地球も同じであったと言われているが、それが現在は0.035%である。窒素が約80%、酸素が約20%であるのと比較すると、二酸化炭素はごくごく微量しか含まれていないことがわかる。二酸化炭素は、海水などに吸収されたり、光合成によって有機物となり陸地や海底に堆積し、悠久の時の流れとともに減ってきたのである。そのわずかに含まれている二酸化炭素が植物を育て私たちの食料も産み出している。近年、地球温暖化の原因とみられ悪玉扱いされる二酸化炭素だが、その貴重さも同等に認識するべきではないだろうか。
今回のテーマに戻ろう。もし生物が朽ちなかったら一体どうなるか想像していただきたい。有機物の中に炭素が閉じ込められ、大気中に二酸化炭素として還流されなくなる。とうぜん、大気中の二酸化炭素はさらに減っていくであろう。そうなれば、植物は生存しにくくなる。動物が植物を食べ有機物を二酸化炭素に戻すことが重要なのである。つまり、動物が植物に従属しているのではなく、植物も動物も互いに支え合い、「生まれては朽ち、朽ちては生まれる」という循環の中で生きている。多分、「宇宙のすべてのものは、いずれ朽ちることを、滅びることを前提に、生まれ存在している」のではないだろうか。
このような観点から冒頭の言葉を私流に言いかえると、「朽ちることは善、朽ちないことは悪」となる。
初冬の寒風が大地を渡り、命を終えた葉っぱが次から次へと落ちていく。そして、その葉が大地に積り、無数の命の糧となっていく。尽きせぬ循環こそが無数の命を育むのである。
(文責:鴇田 三芳)