第204話 効率と寿命

百姓雑話

効率は経済活動の基本的なエレメントになっている。効率を追求しない仕事は稀有である。芸術家や哲学者、文筆家や評論家、あるいは宗教家や厭世家でもないかぎり、「まんざら非効率も悪くはないではないか」などと口にしにくい。競争社会で日々もまれている人が効率追求に否定的なことを言えば、たちどころに職から干されかねない。効率に疑問をはさむ余地はないというのが世相であり、効率の追求は生物の本性とみなすこともできる。

例えば、ライオンはむやみに狩りをしない。空腹が満たされれば、エネルギーを無駄使いしないように、ごろごろ寝ころんで時を過ごす。原野の戦士カマキリも効率の良い生き方をしている。よほどの危機に直面しなければ羽を使って飛ぶことはなく、獲物をとろうと動き回ったりもしない。獲物が通るのをじっと待っている。人間の歩き方もエネルギー効率がとても良いという。必要以上に筋肉を使わないように、地面すれすれに足を前に運んでいる。

私も、日々忙しく働き、効率を意識しないことはない。農業は利益を出すのが容易ではない職業だから、なおのこと効率を上げる必要性に追い立てられる。駅構内での野菜販売を10年以上も続けてきたが、その日の午後は荷造りに追われる。納品時刻が迫ると分単位で作業をこなすことも珍しくない。すっかり慣れているので時間に追われてもおろおろしないものの、さすがにそんな時は、アドネラリンがどっと分泌され、交感神経がフルに活動しているようだ。

猛烈な忙しさから開放され、ほっと一息ついた時など、「こんなことでは寿命を縮めてしまうのではないか」と心配になることがある。「はたして効率を金科玉条のように崇め立てて良いのか」と言う疑問が湧くこともある。

太古の昔から、人類は頑強な効率の壁に直面しては何度も越えてきた。二足歩行で、火で、言語と文字で、金属製の道具で、農耕で、貨幣で、職能分業化で、大型外洋船で、内燃機関で、核エネルギーで、そしてコンピューターで。それらの中でも、極めつけは「核エネルギー」の発見だろう。これほど効率的にエネルギーを取り出せるものはないし、これほど効率的に人を殺傷できるものもない。

効率追求の果てに私たち人類が得たものは、手放しで受け入れられる幸せでもなく、自然と調和した生活でもない。明日への不安と相互不信であり、私たちの命を支える自然環境の破壊であった。

こんな生き方を人間はいつまで続けられるのだろうか。たゆまぬ効率追求の結果として手にしたものを果たして今後もコントロールできるのだろうか。

人類は今や、世界中の隅々にまで行き渡り、文明の地平の果てが視野に入ってきた。もう効率の追求に猛進せず、進歩という一本道でちょっと立ち止まり、その生き方をゆっくり考えてみるべき時代に差しかかっているのではないだろうか。

このまま行けば、人類の寿命はあっけなく尽きてしまうかもしれない。

(文責:鴇田 三芳)