第54話 常識の向こうに、きっと

百姓雑話

日ごろ意識しようとしまいと、人は常識に支配されている。それはまるで、常識という海に群れている小魚のようだ。生活習慣にしろ、言語にしろ、社会制度にしろ、はては思考さえも、常識にしっかり依拠している。できるだけ平穏に無難に生きていくうえで、常識は不可欠である。

常識は、終わりの見えない旅路を照らす、確かな光である。道標である。常識がなかったら、人は道に迷ってしまう。死んでしまうことさえある。非常識が幅を利かせては困るのである。そんな社会は落ち着かないし、危険である。

しかし常識は、人を守ってくれる反面、人生を拘束したり不幸に陥れたりもする。だから私は、どちらかと言えば、まず常識を疑ってかかる癖がある。ありていに言えば、あまのじゃくなのかも知れないが。そのため若い頃から、「たった一度の人生なのだから、常識という先人の歩いた道をそのまま辿るような一生は送りたくない。できるだけ常識にとらわれない生き方をしたい」との思いを胸に生きてきた。海図もコンパスも持たず、夜空の星々と太陽と、時々現れる島々と潮の流れを頼りに、終わりの見えない海原を小舟で航海するような、そんな人生を。

ところが、現実は辛い。疲れはてることは日常的。孤独にさいなまれることもある。次に島が見えたら上陸して航海をやめようと思ったことも度々である。しかし、そんな孤独や挫折感にさいなまれた時、なぜかいつも、目標を同じくする人と出会えた。励まし合い、喜び合い、この上なく幸せな気分になり、共に航海を続けてきた。

もちろん望めば、まったく別の航海もあったであろう。例えば、快適で楽しみに満ちた豪華客船によるクルージング。そういう航海も悪くはないが、自分の性格からして、そのような航海は退屈である。他人任せの航海の途中で、タイタニック号のように予期せぬ氷山に座礁し、常識の海に溺れることになったら、後悔しか残らない。

苦労とリスクの連続であろうが、やはり小舟での航海がいい。時にはオールを漕ぐ手を休め、過ぎてきた海路の先を眺めながら、はるか太古の昔に思いを馳せるのもいい。すると、母なる海から陸地に上がろうとしている生物が蜃気楼のように浮かび上がってくるかもしれない。乾燥や餌、さらには紫外線や宇宙線という大きなリスクを承知で海から陸地に上がった生物の、長い長い旅路のはてに人類が、そして今の自分がいることに気づくだろう。そして日が落ち、漆黒の闇を照らす星々を見上げると、今まさに人類が地球という母なる惑星から外へ、広い宇宙へと旅立とうとしていることにも気づくだろう。

そんな人類の過去と未来に想いを馳せつつも、今この時代を、この瞬間をしっかり生きていこう。そして、人類をこんなにも閉塞状態にしてしまった常識の向こうに、きっと何か違う明るい未来があることを信じつつ、良き仲間たちとともに今年もまた格闘し続けよう。

(文責:鴇田 三芳)