第55話 余裕と無駄

百姓雑話

 

この時期は、ほぼ一日中、農地が凍りつき、作付けはほとんどできない。農場での作業は主に収穫と荷作りである。早々と家に帰れば、毎年恒例の決算事務が待っている。それでも、ハウス栽培をしていないので、余裕が生まれる。これをどう使うかが重要になる。

しかし、ここに悲しい性が潜んでいる。余裕が生まれても、惰性に流され、欲望に突き動かされ、つい日常の延長戦に陥りがちになる。揚げ句には、やる価値の低いこと、時にはマイナスになることに、つい手が出てしまうのである。立ち止まって冷静に考えれば分かるのだが、現実には余裕が無駄と失敗を生むのである。

農園の研修生も、真面目で一生懸命に働こうとするので、例外ではない。例えば、害虫対策のために畑に草を敢えて残しておくと、研修生がいつの間にかきれいに片付けたりする。物事の全体像を把握せず、あるいは明確な目標に基づく段取りを組まないまま真面目に働いている人ほど、その傾向があるような気がする。

この余裕の使い方に関して、私が研修生に勧めるのは、できるだけ日常の延長を避けることである。例えば、現在の仕事とは直接関係しないことを勉強する。日頃会えない人や他の農家を訪ねる。会合やセミナー、あるいは研修やイベントに参加する。もちろん、短期的に別の仕事で収入と経験を得るのもいい。お金に余裕があれば、海外を旅するとか趣味に興じることもできる。どうしても仕事が気になるようであれば、日頃できない作業に集中するとか、スポーツや体力トレーニングに精を出して忙しい季節に備えることもいい。余裕をいかに活用するかが、その後の人生に大きく影響することは間違いない。

しかし現実は、なかなか余裕を有意義に活用するのは難しい。それは、個人に限らず、国家や地方自治体も同じである。経済的な余裕が膨大なインフラ整備と新たなサービスを可能にしたが、すでにインフラの老朽化が始まり、サービスは時代にマッチしなくなりつつある。そして、多くの無駄を生み、環境を破壊し、借金の山を築いてしまった。それらのツケがバブル経済の崩壊とともに津波のように押し寄せている。

例えば、わずかな土地が買収できずに、ほとんど開通している道路が使えないようになっている。ジェット機の轟音どころか、閑古鳥の鳴き声が聞こえる地方空港もたくさんある。買収したものの利用しないままの土地がいたる所にあり、草刈業者を養うだけになっている。公園には、子どもたちの姿はほとんど見かけず、放射能に汚染された土の山と遊具だけが置かれている。利用者数の少ない図書館も珍しくはなく、知的財産の墓場のようである。そして、明るい老後を保障するために始められた年金制度が財政政策を圧迫している。本当に挙げたらきりがない。

しかし、これらのツケから逃げる訳にはいかない。今後も少子高齢化と経済不振が続くと予想されるので、気が遠くなるような膨大なツケを払うのは至難の業だが、責任は取らなければならない。このまま放置したら、未来を担う若者や子どもたちに申し開きできないではないか。

(文責:鴇田  三芳)