昔、クレージー・キャッツというコメディアン・バンドが一世を風靡した。その代表的なヒット曲に、故・植木等氏が歌った「スーダラ節」がある。その一節に「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」という有名なフレーズがある。しかし、非正規労働者が労働者の3割以上にもなり、正規労働者でさえもリストラと背中合わせの昨今では、信じがたいほどの楽天的なフレーズである。
ところで、こんな状況に置かれているサラリーマンが、失職したために農業でもしたいと思い農地を手に入れようとしても、公的にはほとんど無理である。農地法が存在するからである。その一方で、農家は世襲制度と法律に守られ、国民の財産である農地を独占している状況が長く続いている。あまりにも矛盾しているではないか。どうして今でもこんな状況が続いているのだろうか。
私は3つの理由が少なくても存在しているように思っている。
まず、農地独占という既得権を農家自らが手放すようなことはない、ということである。安部政権がTPP加盟をてこにして国内の既得権を突き崩そうとしているが、農地に関する既得権を突き崩すには相当な覚悟がいる。そもそも既得権をこの世からなくすのは至難の業である。昔から代々、長男が家督を継ぐという制度は、まさに既得権のなせる業である。こんな身近な制度を誰が根底から葬り去れたであろうか。
次に、こういう農業分野の問題や矛盾を農家や農業関係者以外はまったく知らない、ということである。学校でも社会に出てからも知らされることがないからである。上記の既得権の魔力からして、当然である。既得権を握っている者自らが既得権の問題を一般の人々に衆知するはずがない。「なぜ教えてくれなかったんだ」と怒ったところで、残念ながら、「世間知らず」と思われるのが落ちである。理想社会とは程遠いかも知れないが、それが世間、それが現実である。
そして、3つ目が悲願と怨念である。綿々と権力者や商人などに虐げられ一揆を何度企てても権利と自由を獲得できなかった貧農たちの悲願。権力者や都市生活者から蔑視され差別を受け続けてきた農民たちの怨念。これらは、非常に重く根深い。
昔から無数の農民たちが、戦いや戦争があるたびに戦場にかりだされ、その最前線で命をかけて闘ってきた。それにもかかわらず、豊臣秀吉以外に歴史に名を残した農民がいたであろうか。そして太平洋戦争でも、おびただしい農民たち下級兵士の血が戦場を染めつくした。その命をあがなうかのように、敗戦によって期せずしてやっと手に入れることができた悲願の権利と自由をそうそう農民たちが手放すはずがない。その権利と自由という既得権を農民たちは合法的に、時には非合法に死守してきたのである。
いずれにしても、こんな状況が温存され、国民の財産である農地が放棄され続けてきた。この問題を放置してきた為政者や農業関係者にも、もちろん責任はあるが、このような現実に無関心できた人々の側にも責任があるのではないだろうか。サラリーマン生活者にも、この問題をもっと自分たちの問題として考えて頂きたい。それなくして、日本の農業や食料の状況は改善しない。
(文責:鴇田 三芳)