第157話 ボランティア

百姓雑話

早朝、農場にむかう途中で道路を掃除している男性をよく見かける。年の頃は60代半ばであろう。写真のように、側溝などにたまった泥や草などをピカピカのプリウスの後部に積んでいく。話しかけても何も語らず、写真もやっと取らせてもらった。報酬も名誉も何も求めず、ただひたすら道路をきれいにしている。

ところで、団塊の世代と呼ばれている人たちが次々と定年をむかえ仕事から離れつつある。私もその世代に属しているが、職業柄、定年を言いわたれることはない。望めば、死ぬまで働ける。幸か不幸か、日本の農民の共通点である。

団塊の世代は、明治維新を推進した若者世代に匹敵するくらい、右肩上がりの社会を爆走してきた。戦中世代とデフレ世代の間に位置し、平和と繁栄を享受してきた。

この世代とその前後の世代の特徴は、物の乏しい時代に育ったため、物づくりが大好きで得意である。日本が「物づくり立国」と形容されるようになった一因である。また、競争に明け暮れてきたため、とにかくタフで、何事にも必死に頑張る習性がある。「仕事」と呼ばれる活動から開放されても、時間のゆとりができると何かしたくなる。日長ぼーと過ごせない性癖が心の底まで染みついている。したがって、良くも悪くも、日本社会に今後も大きく影響を与え続けるだろう。

そこで、定年世代の中でも活力を持てあましている人たちは、第三の人生にチャレンジしてはどうだろうか。年金や貯蓄で余生を過ごせるのであれば、例えばボランティア活動に参加してみるのも良いだろう。お金を稼ぐために日夜働いてきた頃とは違った、新たな世界と価値観が見えてくるかもしれない。損得を超えた人間関係を築ける可能性もある。

現役世代を引退してからボランティア活動をするのは、何も目新しいことではない。職住が分断される前までは、老人が孫の世話や地域の子どもたちの面倒を見てきたのである。たぶん、ずーっと人類はそうやって、家族や集団を維持し団結してきたのだろう。だから、「長老」として尊敬され、老いてもなお社会的ポジションが用意されていたのである。そこには、「孤独死」などという寂しい末路はなかった。

そもそも、サラリーマンという人種や年金生活などというライフ・スタイルは、長い人類の歴史からすれば、つい最近のことで、産業革命から生まれた生産方式と資本主義が必要とした生き方なのである。何ら普的な生き方ではない。身の回りに物が溢れ資本主義の欠点が顕在化してきた現代、次なるライフ・タイルを私たちは模索し始めているのである。その一つが、冒頭で紹介した男性のように、金銭目当ての活動ではない、自主的なボランティア活動である。

私が農民だから言う訳ではないが、仕事を引退してもなお元気な高齢者は農業ボランティアとして活躍してもらいたい。衰退の一途をたどる日本の農業はすでに国家的な危機状態にある。もはや、とても農民だけでは復興できない状態なのである。

長年、私は会社員などのボランティアに助けられてきた。そして、皆生農園のある地域には、中高年の都市住民が運営する「しろい環境塾」というNPO法人があり、これまた長年活動してきた。その一つが、耕作放棄地などを復活させ農業を営む活動がある。今ではすっかり農村地域に根付き、その存在感を増す一方である。このような人たちがごく普通に存在する近未来を思い描きながら、私は農業を営んでいる。

(文責:鴇田 三芳)