第209話 四つの平等は

百姓雑話

暮れも押しつまり、暖冬とはいえ、寒さが身にしみる。農作業を終え家路につく頃は、もう真っ暗である。澄み切った夜空に輝く星たちを見上げると、難民キャンプでの生活を思い出すことがある。

そこには電気がなかったので、日が落ちると一気に暗くなる。無数の星々が砂漠に広がる漆黒の闇を照らし、星あかりだけで周囲の景色が本当によく見えた。時には流れ星が雨のように降り注いだこともある。夜も明るい日本とは別世界が、そこにはあった。地面に寝転ぶと、まるで自分が、宇宙にすっぽり包まれた、はかない生命体であるかのような気になった。

難民キャンプでは命がとても軽い。時には、いともたやすく燃え尽きる。命の背後にいつも死が隠れていた。飢餓状態のため、栄養失調の子どもや老人が、風邪やちょっとした下痢くらいで、あっけなく亡くなってしまう。深い眠りに落ちるように、穏やかな表情のまま息絶える。それはまるで、現世の苦しみや悲しみにさいなまれてきた命がゆっくり浄化されていくようにも見えた。

ところで、人には少なくても三つの平等がありえる。機会の平等、結果の平等、そして死の平等である。アメリカでは、機会の平等を標榜しつつも、結果の平等は保障されていないらしい。

戦後の日本は、機会の平等だけでなく、戦前まで延々と続いてきた差別的な階級社会の反動からか、共産主義国のような結果平等も追求してきた。健康保険や年金制度、実績に直結しない給与体系や終身雇用、安い公共住宅や生活保護制度。さらには、地方出身の議員や首相が公共事業や補助金・地方交付金などで富の地方分配を続けてきた。まさに「一億総中流」という表現に象徴された時代であった。

しかし今や、平等の影が薄くなってきた。

明日をも知れない難民たちにも、飢餓とそれからもたらされる死という平等があったが、日本では「地獄の沙汰もカネ次第」という状況である。多額のカネさえあれば、先進医療で延命できる時代になった。もはや、死の平等さえも化石になりつつある。

農場ではこの時期、命を謳歌していた夏野菜は今やどれも枯死してしまった。早朝、農場に着くと、びっしりと霜が降り野菜が凍っている。日が高くなるにつれ、どの野菜にも等しく光が降り注ぎ、凍っていた野菜が命を吹き返す。真冬はすべての命に厳しいが、その先には等しく春が必ず訪れる。

(文責:鴇田 三芳)