このご時世で、資本主義の根幹であるインフレを誰が望んでいるのだろうか。かすかすの蓄財や年金で生活している老人が望んでいるだろうか。住宅ローンを抱えている人々が望んでいるだろうか。子どもの学費を稼ぎだすために自分の小遣い銭も気にしている人が望んでいるだろうか。定職に就けずに苦しんでいる若者が望んでいるだろうか。多分、おカネに余裕のない庶民の多くはインフレを望んでいないような気がする。なかには、小泉政権時代に戦後最長の好景気と言われながらも給料が下がり続けた辛い経験から、資本主義に疑問を抱いてる人も少なからずいるはずである。
「カネ」が、生産活動のために適切に使われていれば資本主義が衰えることはないかもしれないが、人類は何をもっと生産する必要があるのだろうか。私たちの身の回りを見ると、物に溢れていないだろうか。物質的に豊かになった日本では、家計支出の大半は、公共料金を含む住宅費と食費、車や家電製品などの耐久財の買い替え費用、教育費、保険料、インターネットなどの利用料金、それに趣味や遊びにあてる費用くらいである。「カネ」によって、他にどんな欲望を満たしたいのだろうか。
かつて自動車産業と肩を並べ、日本の花型産業であった家電業界を見ていただきたい。地デジ対応テレビの需要が終わった家電量販店はどこも閑古鳥が鳴いていている。その大元締めである天下のパナソニック、シャープ、SONYでさえ赤字に苦しんでいる。これが、資本主義のもとで生産活動に励んできた結果である。
そもそも、資本主義と長く人類が使ってきた「カネ」とは別物である。資本主義は「カネ」の利用の一例に過ぎず、必要な「カネ」を使い続けても、未来にわたって資本主義にどっぷり依拠する理由は何もない。
広い世間には、資本主義から派生したルールに則って、資金を右から左へ瞬時に移動し巨万の富を得ている人たちがいる。庶民にとっては羨ましい現実だが、彼らは何も生活費に困っている訳ではなく、たぶん欲望を満たすためのゲームを楽しんでいるのだろう。しかし、ほんの一握りの人だけが「カネ」の多くを独占するようなマネー・ゲームが続けば、かつてナチス・ドイツがユダヤ民族を虐殺したように、社会を不穏にするだろう。そして今後、ロシア革命を機に資本主義に対抗して共産主義が世界に広がったように、人類は資本主義に対抗する新たな生き方を求めていくだろう。
敗戦後、日本の農家は長く抑圧されてきた歴史から開放された。そして、農家の大半を占める兼業農家は、都会から押し寄せてくる資本主義を利用しつつも、その一方で良くも悪くも資本主義に対抗する生き方をしてきたような気がする。彼らのほとんどは、農業以外から得た所得を赤字続きの農業に注ぎ込み、米や野菜などを自給し、余剰農産物を販売してきた。この行為は、資本主義から見れば実に不可解で、日本の農業が衰退してきた一因であるが、当時としてはもっとも現実的な生き方であったのかもしれない。なぜなら、日本のような家族経営の小規模農業は資本主義に馴染みにくく、たぶん農民は資本主義に懐疑的であったからであろう。
世界を席巻し人類を虜にしてきた錬金術、資本主義。その衰退の先、ポスト資本主義は何になるのであろうか。それを模索する時、戦後の日本農民の生き方が何かの参考になるような気がしてならない。今よりも住みよい世界になっているとの期待を込めて、そんな世の中を、是非とも見てみたい。
(文責:鴇田 三芳)