実りの秋、食欲の秋を迎えた。暑くなく寒くもなく、良い季節だ。この頃になると、種まきや定植がほぼ終わり、収穫の日々が続く。それまでの苦労が報われる気がする。
しかしその一方で、秋には厳しい現実もある。豊作貧乏である。私は、豊作貧乏になると、「人の命を支える職業が何故こんな憂き目にあうのだろうか。」と重い気持になる。思い起こせば、今から40年以上も前のことになるが、大学の教養課程の授業で「経済には市場原理があり、物やサービスの価格は需要と供給のバランスで決まる。」と教わった。野菜も例外ではなく、市場原理が働き豊作の場合は価格が暴落する。虚しい気持になるが、仕方がないのかもしれない。
ところが、社会を広く眺めると、必ずしも需要と供給のバランスだけで価格が決まっていない産業分野に気づく。例えば、医療産業には市場原理がほとんど働いていないようである。農産物では品質に応じて値段が決まるが、名医に診察してもらっても未熟な医者に診てもらっても、基本的に医療費は同じである。また、「この季節は患者さまが少ないため、医療費を値引きいたします。」という病院は皆無である。そんな値引きをすれば、医師会から除籍されたり、国からは違法行為と厳しく責められるだろう。
今さら言うまでもないが、医療と同じように、食料も人の命を支えている。その食料生産の中核である農業や漁業に市場原理が働くように、医療産業にも働いて不思議ではない。しかし、なぜか働かない。
別の角度からこの問題を眺めてみたい。「自由主義経済においては、物やサービスの価値はすべて相対的である。」ということが原則である。つまり、物やサービスなどの価値は、需要と供給のバランスはもちろん、時代や諸種の状況によって、あるいは民族や個人の価値観によって、一定ではない。価値が相対的に変わるので、当然、価値に連動して値段も変動するのである。医療サービスの価値も相対的であるので、市場原理により医療費も変動すべきであると私は思っている。論理的に間違っているだろうか。
しかし、現実はまったく違う。この理由をいくら考えても、論理的な理由が私には見つからなかった。それは非論理的な領域にあると思うしかない。感情とか、欲望などの精神的な領域である。ある日、「苦しい時の神頼み」という諺が頭に浮び、その理由に思い当った。たぶん、「人は、病気や怪我で苦しい時、医療機関の世話になる。命にかかわる場合は、医師が神のように思えることがあるのだろう。だから、神が相対的ではないように、医師や医療サービスも相対的価値を問われない。当然、市場原理は働かない。」ということであろう。「看護師が天使に見えた。」などと言う患者が少なからずいることも、こう考えると、うなずける。
最後に、とても重要な歴史的事実に目を向けよう。人類は食料危機が原因で争いや戦争を絶えず繰り返してきた。日本が満州に侵攻した主たる理由でもある。また、第二次世界大戦後、かつて敵同士で殺し合ったヨーロッパの国々が統合に向かって歩み始めた第一歩は食料問題の解決であった。しかし、人類は医療危機を理由に戦争を起こしたことがあるだろうか。私の知る限り、一度もない。
結局、ひたひたと忍び寄る食料危機に対しては鈍感なために、いざ危機が表面化するとパニックに陥るのである。そして、日本人はその傾向が強いように私は思う。
(文責:鴇田 三芳)