第79話 余計なお節介

百姓雑話

私は発酵食品をよく食べる。ヨーグルトは毎食、納豆は昼食時に毎日欠かさず食べている。だから、胃腸の調子がとても良い。

ところで、納豆を食べる時、「まったく余計なお節介だな」とたびたび思う。例の小さなパック詰めの醤油とマスタードである。特にマスタードは嫌いで、家族もマスタードを食べないので、ごみ袋に直行してしまう。皆さんの家庭ではそんなことないだろうか。また、NTTが人手をかけて各家庭に配る分厚い電話帳をどれだけの人が有効活用しているだろうか。我が家では、開くこともなく、古紙として出してしまう。資源とエネルギーが本当にもったいない。

農作業にも余計なお節介が目についてならない。例えば、草取りを研修生に指示すると、取る必要のない草を取ったり、写真のように害虫を集めるために残しておいた草までもきれいに片付けてしまうことがある。また、トマトや胡瓜などの果菜類を栽培する時、一般的には各種の「管理」という作業を行なう。例えば、脇芽を摘んだり、茎を曲げたり、実の数を減らしたり、農薬を頻繁にかけたりと、実に多くの管理という手間をかける。「何でこんなにも余計なことをするんだろう。もっと手抜きをしても同じ利益があれば構わないのに」と私はずっと思ってきた。手間をかけられる作物はきっと「余計なことをするなよ。お前ら人間の都合で痛めつけるのはやめてくれ」と叫んでいるに違いない。

本当に、私たちの身の回りには余計なお節介がいっぱいある。人々が余計なお節介を欲しているからなのか。それとも、余計なお節介を仕事にしてひと儲けようとしている人たちが世間に溢れているからなのか。もしかすると、そもそも仕事という行為は余計なお節介の別称なのかもしれない。

人が生きていく上で本質的に重要なことを、普通、仕事とは呼ばない。呼吸、炊事、子作りや子育て、歩行、親の介護、・・・・・。ところが、肺を患った人に人工呼吸器を使えば医療行為という仕事になる。弁当を作って売れば仕事になる。不妊症の夫婦に人工授精を行なえば、これも仕事。保育園もただではない。おカネを払ってスポーツ・ジムで歩行機の上をせっせと歩く人もいる。介護制度ができ介護はもう立派な職業になった。

このように、人類は自分自身でできることも仕事にし、おカネの世話になり、社会を複雑にしてきた。これは人類の進歩なのか。それとも退化なのか。「もし人間一人ひとりが何でもできれば、仕事などこの世に存在する必要がないはずである」と私は思う。

「人が生きていく上で本質的に必要なさそうな、余計なお節介がなくても生きていける世の中になれば、あくせくおカネを稼ぐこともなく、もっと楽に生きられるだろうに」と昔から思ってきた自分だが、皮肉なことに、毎日朝から夜中までフルに働いている。理想と現実との溝は深く、その距離は実に長い。

(文責:鴇田  三芳)