第82話 DNAの叫び

百姓雑話

 

30年ほど前、私は難民キャンプで働いていたことがある。食料に事欠き痩せ細った難民たちでも、なぜか次から次と子どもを産む。その現象をさして、ある援助スタッフが「連中は暇だから、やってばかりいるからさ」と言い放った。同席していた誰もが肯定した。

しかし、農業を始め様々な自然現象を見てくると、そのスタッフの放言に私は疑いを抱くようになった。

6月上旬、農場の柿に小さい実がたくさん着いた。しかし下旬ともなると、地面に実がたくさん落ちている。柿の木は、たくさん実を付けても、養いきれるだけの実を残し、その他は落としてしまうという。実のなる野菜(果菜類)でもこのような現象がよく見られる。つまり、難民の子だくさんも柿や果菜類と同じではないだろうか。

また、写真のようにズッキーニやカボチャは、肥料不足になると雄花(おばな)ばかり咲かせ、雌花(めばな)を咲かせない。命の危機を感じ、手っ取り早くDNAを残すために雄花だけ咲かせ、昆虫が他のズッキーニの雌花に花粉を運んでくれるのを期待しているのだろう。

人間も似たり寄ったりである。戦地に向かう夫は、我が身の明日が分からないからこそ、妻にわが子を残していく。また、社会が貧しくなれば男児が望まれる。難民やズッキーニと同じである。

さて、今や人類は、有史以来はじめて、飽和状態に達した。人の住めそうな場所には隅々まで住んでいる。そして、日本や韓国などをはじめ、物質的に豊かになった国々のほとんどで少子化が止まらない。日本でも、国や地方自治体は少子化を喰いとめようと、国民に訴えかけ税金をつぎ込み出生率の向上を図ってきたが、実現できなかった。今後もたぶん実現しないだろう。

そもそも、少子化を止めようとすること自体、無理があるような気がする。自然の摂理に反しているからである。子どもの頃から豊かさを享受してきたために、今の出産世代は子どもを産む必要をあまり感じていない。つまり、明日をも知れない極貧の難民とは正反対の状況にある。「国家のために、家のために子どもをもっと産んでくれ」という発想そのものが時代錯誤である。戦前戦後の日本とは違うのである。

そして少子化は、別の視点から見なければ、その本質が見えてこない。私はDNAレベルで起きている現象と想像している。例えば、豊かさによって変化した体質が子どもを産みにくくする遺伝情報を発現させていることも考えられる。別の表現をすれば、「少子化はDNAの叫びであろう」と思っている。生命活動の根源であるDNAが、末永く生き延びようとするDNAが、「最終兵器を手にした人類を、もうこれ以上増やさなくてもいい。増やし過ぎて、自滅するのは嫌だ。」と叫んでいるような気がしてならない。

かつて私は、会社員を辞めて、ある大学で生態学や微生物学を学んだ。その時、いくつもの驚きの事実を知ったのだが、その一つは、ある種類のネズミは大量発生すると集団で海に突入し死んでしまうという現象である。人類が繰り返してきた愚かな戦争もネズミの集団自殺と同じことのような気がする。

そう考えると、平和裏に自ら個体数を減らすこと、つまり少子化は人類の最後の英知であると私は思う。

(文責:鴇田  三芳)