第281話 惰性と効率化

百姓雑話
露地栽培のイチゴの花が咲き始めました。

惰性は万物の真理である。

惰性で生きることは、けっして悪いことではない。日常的なことをいちいち何から何まで考えながら行なっていては頭がもたない。そもそも生き続けることは、同じことの繰り返し、いわば「惰性」が基本である。日ごろ私たちはネガティブな意味を込めて「惰性」という言葉を使うが、惰性は生命活動の根幹の一つなのである。

生命活動の根幹は他にもある。それは、最小限のエネルギー消費で、最大限の効果を得ることである。つまり、生命は効率化をとことん追求する。例えば、酵素がそうである。きわめて効率的に常温で化学反応を促進している。

また、ライオンやナマケモノを見れば、歴然としている。大人のライオンは、獲物を狩る時以外は、ごろごろしている。けっして無駄にエネルギーを消費しない。動きが緩慢で寝ている時間の方が多いというナマケモノは、1日10gほどの植物しかとらず、極力エネルギー消費を抑えた生き方で生き延びてきた。

効率的な生命活動の例をもう一つ挙げる。皆生農園の周辺にもソーラーパネルの発電施設がいくつもある。このソーラーパネル---人類の英知が生み出した発電素子---よりも発電効率の良いものがある。ソーラーパネルと同じように光エネルギーで発電する「光合成」である。「神に似せて創造された」と言われる人類がいくら知恵をしぼっても、光合成を行なっている微細な「葉緑体」を超える人工物を未だに獲得していない。

このように、生命は実に効率的に機能しているのである。

さて、人間の場合はどうだろうか。日常生活や趣味の活動はともかく、経済活動では、惰性と効率化が調和しにくく、拮抗関係になることが多々ある。まともに働いている人なら誰でも感じることであろう。効率化は、変化を伴う行為なので、どうしても惰性と対立しやすいのだろう。とりわけ、激しい競争にさらされていると、惰性が障害とみなされ、つねに効率が優先される。

その結果、今や人を機械に置き換え、記憶や思考をコンピューターに一任してしまった。高性能な機械やコンピューターを駆使できない人々は、いわゆる「負け組」になりやすく、忍耐の限界を超えた貧富の格差が世界を覆いつくしてしまった。効率一辺倒の必然的な帰結である。

本来、惰性も効率化も生命活動の根幹でありながら、人間社会では調和せず、なぜか拮抗関係、あるいは対立関係になってしまう。人間は特別な生き物なのだろうか。それとも、間もなく淘汰されてしまう異常な生物なのだろうか。

(文責:鴇田 三芳)