今年の関東地方は空梅雨に終わった。例年なら、梅雨の末期には集中豪雨による川の氾濫や土砂崩れが発生し、大きな被害が出ることがある。その地域や場所は事前に特定しにくいものの、後になって冷静に検証してみると、前兆現象や原因が見つかる。
自然現象でなくても、航空機や列車、道路などの事故も同様である。事故が発生する原因が必ずある。時には、いくつかの原因が重なって発生することもある。事故後に検証すれば、ほとんどの場合、やはり事前に異変や兆候があったとわかる。
しかし、人は異変に気づきにくい。どうしてなのだろうか。
農業でも、異変に気づくかどうかが非常に重要である。特に、農薬を使わない場合は、ちょっとした異変に気づくかどうかが、農業で喰っていけるか挫折するかの分かれ道になる。異変に気づく感度が、体力と忍耐力に並んで、もっとも重要である。本を読んでも、大学で学んでも、その感度が上がることはない。農家で研修を受けても、感度を高めるのはほとんど不可能である。なぜなら、研修生を受け入れられるような農家、とりわけ長く営農してきた農家は、そもそも感度が鋭く、ごく普通に異変を察知し、ごく自然に対処しているが、研修生に異変を逐一教えることはないので、研修生はなかなか気づかないからである。これは、職人の間では共通のことである。だから、職人の世界では「技を盗め」と言われるのである。昔も今も、そして将来も、それは変わらない現実である。
話しを戻そう。どうして人は異変に気づきにくいのだろうか。
私は、多くの研修生と長期間いっしょに農作業をしてきて、ここ数年、あることに気づいた。それは、傾向として、若い人ほど異変に気づきにくいことである。異変を察知する感度が鈍いのである。読者の中にも、同様の思いをお持ちの方がおられよう。なぜそのような傾向が生まれるのか、よくよく考えてくると、私は「便利さ」に行き着いたのである。
便利さによって、人類は多くのことを手に入れた。しかし、その一方で、非常に重要なことを失ってしまった。例えば、便利さは人間関係を希薄にした。子どもを過保護にした。失敗を許容する寛容さを社会から遠ざけた。結果を瞬時に導き出すことを求め、深く広くじっくり考えることを排除した。自然環境の脅威を遠ざけ、環境適応能力を著しく低下させた。・・・・・・・・・・・・。便利さによって失った、これらの能力や体験が複合し、人は異変に対し鈍感になってしまったと私は考えるようになった。この鈍感化を一言で表わせば、「生物としての生命力が低下した」とでもなろうか。
アフリカのサバンナ地帯で生まれた人類が未知の世界に広がっていった時のように、かつて経験したことのない未体験ゾーンに向かって今また人類は歩んでいる。繰り返せない歴史の海に漕ぎ出した。だから、常に異変に敏感でなければ、まともに生き抜くことはできない。
(文責:鴇田 三芳)