今や日本人は冬でもサラダを食べる。ほとんどの人たちが、たぶん、何の疑問も持たず食べているのだろう。スーパーに行けば、ほぼ全ての農産物が一年中売られている。それを可能にしたのが、ハウス栽培の普及、品種の多様化、産地リレー、輸送手段の高度化、輸入などの、供給体制の発展である。
ハウス栽培は、自然の脅威を受けにくく、暖房すれば夏野菜を真冬でも作れる。品種の多様化が顕著なものは野菜である。同じ小松菜でも、暑い時期に栽培できるような品種から、寒い時期向きの品種まで、実に多くのバリュエーションがある。ほうれん草やキャベツも同様である。
また、産地リレーも日本では一般化している。年の前半は、暖かい地方から出荷し始め涼しい北海道や高原に産地が移動し、後半は逆のコースをたどる。この産地リレーと輸入を無理なく実現したのが輸送手段の高度化である。生鮮野菜でも鮮度が落ちにくいように冷温で、時には凍らせて素早く輸送する技術、いわゆる「コールド・チェーン」の普及は画期的である。アメリカで採れたブロッコリーが、ジェット機で空輸され、日本のスーパーに並んでいる光景は当たり前となっている。
これらの技術的な発展があって、真冬でもサラダが食べられ、夏野菜であるトマトや胡瓜が一年中食卓を彩る。涼しい気候でしか栽培できないレタスが夏でも出回る。限られた旬の農産物を使って、あれこれ考えながら料理をする必要は、もはやない。
しかし、何か大事なことを捨て去ってこなかっただろうか。発展の恩恵を享受する一方で、工夫や知恵を退化させてしまわなかっただろうか。命の源泉である食べ物をとおして季節の移ろいを体感できなくなったのではないだろうか。
あえて今さら、このような文明論的な疑問を持ちださなくても、発展の負の部分、具体的なマイナス面がいくつもある。それらの一端でも多くの消費者に私は知ってもらいたい。
一つ目は、エネルギー消費が増えたことである。冬にトマトや胡瓜を作るには石油などを燃やして暖房する必要がある。輸送するにも石油が必要である。冷やした状態に保つのも石油や電気が要る。真冬のトマトや胡瓜、夏場のアメリカ産ブロッコリーは、食べ物を買うとともに、石油も買っているようなものである。
二つ目は、安全性の問題である。閉め切ったハウスの中で暖房すれば、梅雨時と同じ高温多湿の状態が続き、病気のもとになるカビが生える。とうぜん、農薬を多用する。少し誇張すれば、寒い時期のトマトや胡瓜は農薬を食べているようなものである。好きな物を食べて健康を害するのも、タバコと同様に、個人の自由ではあるが、・・・・・・。
三つ目は、農民への健康上の負荷である。季節に逆らって栽培すると、肉体的・精神的に大きな負荷がかかる。時には健康を害する。何度も例を挙げた冬場のトマトや胡瓜は農薬づけである。農薬が空気中に漂う中で農民は収穫などの作業を行なわざるをえない。一般的に、毒物を肺から吸収するのは胃腸からよりも危険度が大きい。農民からすれば、野菜を売るだけでなく、自らの健康も売っているようなものである。
好きな物を一年中食べたい。誰もが持っている性である。私も大好きな枝豆やブロッコリーを一年中食べたい。でもそれは、農民に無理なことを要求することがある。
(文責:鴇田 三芳)