つい最近、こぎれいな服装の若い女性が廃品回収している光景を目にした。初めてである。鉄くずや壊れた機械などを回収する廃品回収業者といえば、中高年の男性と相場が決まっていた。もし若い女性がこの業界にも進出してきたのであれば、とても好ましいことであり、時代が変化しつつある兆しかもしれない。
ところで、この季節になると畑仕事に余裕がうまれ、栽培や収穫の他にいろいろな作業をする。例えば、畑の土を良くするために糠や籾殻を入れる。有機農業では欠かせない大事な作業、いわゆる「土づくり」である。その他にも、施設の建築や修理、種の手配、機械のメンテナンス、畑にアクセスする道の整備、農場に隣接する森の枝切り、他の農家の視察、確定申告の事務などがある。
そしてこの時期、もう一つ大事な作業がある。片付けである。片付けと言っても、野菜を栽培する畑ではない。施設の建築や解体、水道工事などで出たゴミの片付けである。私の場合、畑以外の場所の片付けがつい後手に回ってしまう。
自己弁護すれば、私は貧しい農家に生まれ、それも大家族の中で育ったために、気安く物を捨てられず、思い切った片付けがなかなかできない。「今は使わなくても、いつか使えることがあるかもしれない」という思いが先に立ち、細かな木くずさえ捨てずに持っている。余談になるが、この頃、近くの大きなホーム・センターでも木くずが売られている。世間には、私のような古い人間がまだまだ大勢いるのだろう。
社会にはいろいろな産業がある。それらをあえて二つに分けると、動脈産業と静脈産業に分けられる。冒頭であげた廃品回収業は典型的な静脈産業である。農業で言えば、作付けや収穫は動脈産業で、収穫後の畑やその周辺の片付けは静脈産業と言えるだろう。私たちは、つい陽のあたる動脈産業に目を奪われがちである。とりわけ男性にその傾向が強い。くわえて、「静脈産業は動脈産業より劣る」という認識が主流になっている。
しかし、血液は動脈と静脈があってはじめて滞りなく循環するように、動脈産業と静脈産業は表裏一体であり、根源的には同等である。そのことを私たちは、戦後の大量生産・大量消費の風潮に流され、つい忘れかけているのではないだろうか。
かつて江戸時代には、江戸郊外の農民が農産物を町に売りにきて、その帰りに人糞を買っていったそうである。長屋の住人の糞尿が大家にとっては大事な収入であった。つまり、動脈産業と静脈産業が同等に機能する見事な循環が江戸という大都会とその周辺で普通に行なわれ、来日した西洋人が驚嘆したという。その循環型社会を象徴する精神として「もったいない」という美徳が日本文化の底流にあったが、戦中戦後の貧しい生活を体験してきた世代が少なくなるにつれ、失われつつあるような気がする。
最後に、話しを農業にもどそう。有機農業は、籾殻や藁、糠や動物の糞など、食料を生産した後にでる残渣、いわば「ごみ」を利用することが多い。それらを大地に還し、農産物を生みだす。つまり、有機農業は静脈産業と動脈産業の両方をあわせ持つ職業である。そして、有機農業に限らず、社会全体でも、もっと物を大切にする循環型社会に戻ることを願ってやまない。
(文責:鴇田 三芳)