第115話 自由と代償

百姓雑話

農民でない人が農業を始める動機はいろいろある。その中でも、代表的な動機の一つが「農業は、自分のやりたいように、自由にやれる職業だから」というものである。組織や上司の監督下で働くサラリーマンと比べれば、確かに自由度は高い。自己責任において、何から何まで自分で考え、決定し、実行できる。力を尽くし期待どおりの成果が上がった時の達成感は格別である。

今から30年以上も前の会社員時代、上司のカバン持ちで、2週間ほどアメリカに出張したことがある。初めての海外旅行ということもあって、行く先々、驚きの連続であった。特に強烈な印象が残ったのは、アメリカ人が「自由(freedom)」を強く意識しながら生きていることである。もともとの建国の経緯と精神からして当然と言えば当然なのだが、彼らアメリカ人は自由を神のように崇めているかのように私は感じた。実際、大統領の就任演説の中でも、盛んに「freedom」という文言が使われる。

ところで昨年末、私どもの畑の脇で2匹の猫が相次いで車に引かれ亡くなってしまった。道路を挟んで反対側の家から、たびたび農場に訪れ、草むらにいるバッタなどの昆虫を食べていた。家と畑の間の道路は、森の中を走る狭い道なのだが、近くにある工業団地に通う人たちの裏道になっており、朝夕の交通量がとても多い。猫は、犬と違い、鎖につないでおくわけにはいかなので、いつか車に引かれてしまわないかと心配していたことが現実になってしまった。

特に写真の上側の一回り小さい雌猫は、日常的に姿を現わし、作業をしている私に近づき、こちらの様子を興味深げにうかがっていた。時には、腹ばいになり、うつらうつらしながら、収穫作業をしている私を見ていることもあった。そんな可愛い猫の命を、たぶん車は一瞬で奪ってしまったのだろう。家と畑を隔てる狭い道が三途の川になってしまった。まさに、一寸先は闇である。一刻も早く飼い主が見つけられるよう目立つ所に運ぼうと抱きかかえた時、まるで我が子を亡くしたような感情がこみ上げ、涙がこぼれ落ちてしまった。

最後に、これから新規就農する若者にアドバイスを一つ残したい。それは、農家の跡取りとして就農するケースも含め、自ら選んで農業を始める者は、その自由の裏側にある「自己責任」を常に自覚し、時には「手痛い代償」を払うリスクを覚悟しておかなければならない、ということである。この自覚と覚悟のないまま営農していると、避けようのない厳しい状況に陥った時、非常に大きな精神的、肉体的、

そして経済的なダメージをこうむることがある。そんな、ごく当たり前のことを、凍てつく大地に横たわる2匹の猫が語っているような気がした。

(文責:鴇田  三芳)