先月下旬、運転免許証を更新した。今回から、免許証の裏に臓器提供の意思を表わす欄があった。健康保険証と同じように提供の条件は、脳死でもOKか心臓停止の場合のみ提供するか、二者選択である。私は後者の心臓停止の場合のみを選んだ。脳死を認めていないからである。
それでも家族には、脳死状態になり1か月たっても意識が回復しない場合は、脳死を死とみなし延命措置をやめ、臓器を可能なかぎり提供して欲しいと遺言してある。万が一、1か月以上にわたり延命措置を施していれば意識が回復した場合があっても、それは結果論であり、仕方のないことである。そもそも、1か月間も高度な延命措置を受けられること自体、数十年前までは考えられない程ありがたいことである。
ところで、17世紀の思想家・パスカルは、「人間は考える葦である」と言った。むかし日本では、「精神一到何事か成らざらん」と言い、精神力の重要さを強調した。太平洋戦争の末期には、「天皇陛下、ばんざーい」と叫びアメリカ軍の弾幕の中を銃剣で突撃した。近年では、「気合いだーっ! 気合いだーっ! 気合いだーっ!」と娘のレスラーを大声で鼓舞するコーチが有名である。
確かに精神力は非常に重要である。一流のスポーツ選手でもメンタルの重要性を指摘し、自らもメンタル・コントロールを日々実践しているらしい。この点は、医学的にも立証されている。例えば、緊張すると交感神経が働き闘争モードになり、リラックスすると副交感神経が優位になり柔和になる。また、癌になった人が悲観的になればなるほど免疫力が低下し、病状の悪化が早いそうである。まさに、肉体と精神は表裏一体の関係と言える。
それでも私は、人が精神力や精神性を声高に叫ぶ時、何か違和感を覚えることがある。あたかも、精神が肉体を優越しているかのような物言いに聞こえるからである。私は日々、人間以外の生き物を間近で見ているからか、私たちが「精神」と呼ぶものに一体どれほどの価値があるのだろうかと、素朴な疑問を抱いている。
人類は、発生以来たぶん初めて、そのほとんどが飢餓から解放され、現在は約75億人も生存できている。それを根底で支えているのは植物などが行なう光合成である。私たちの食料のほぼすべてが光合成によって作られ、酸素も光合成によって生まれている。それら命の源泉を生み出す生き物に「精神があるのか」と問われても、「ある」とは断言しにくい。少なくても、人間が持っているような精神はないのかもしれない。
だからと言って、それらの生き物が生命体として本質的に劣っているかと言えば、そうとも言い難い。
イチョウの木は、特に美しい花が咲くわけでもなく、たくさんの落ち葉と臭い実をまき散らす。考えようによっては人が嫌うような木であるが、東京都の木としてたくさん植えられている。そのイチョウは、約2億年に生まれ絶滅の危機にあい、細々ではあるが今でも生存している。生存期間だけで比べれば、人類よりはるかに優れた生命体と言えなくもない。
今まさに人類は、精神の優位性を誇るのではなく、精神は両刃の剣ということを自覚し、精神と肉体のバランスをとるべき時代にさしかかっているのではないだろうか。
(文責:鴇田 三芳)