私は、いまだに昔ながらの携帯電話、いわゆる「ガラケイ」を使っている。スマホを買っても、その多彩な機能を使いきれないと思うからである。また、高価なスマホを畑で失くす恐れもある。私にはガラケイとパソコンで十分である。
ところで世の中には、「使う側」と「使われる側」が逆転し、本来「使う側」の者が「使われる側」に使われてしまっているケースがたくさんある。何気なく日頃は見過ごしがちであるが、冷静に観察すると、驚くほど多いことに気づく。私たちが抱える諸問題の根底にほぼ共通して見出すことができる。
農業分野の例をあげれば、稲作農家が典型である。日本では、ほとんどの稲作農家は所得を得られていない。つまり、赤字なのである。高価な機械を買い揃え、重労働から解放されたものの、いわゆる「機械貧乏」と言われる状態で、買ってしまった機械のために働いているようなものである。使うための機械に人が使われているのである。
いつの頃からか、農家と農協の関係も逆転してしまった。農家が自分たちのために使う目的で組織した農協が、その設立の理想や理念を忘れ、徐々に農家を誘導し、拘束し、いつの間にか職員の働き場を確保し続けるために農家を使っている。私には生協とその組合員の関係も似たり寄ったりに見える。生命保険会社は既に逆転関係を追認し、株式会社化しつつある。
昔、公務員は「公僕」と言われ、市民に使われる立場、奉仕する立場と思われた時期があった。しかし、今やその本分をおろそかにし、農協と同様に組織維持に傾斜し、「市民にとって必要な職務だから」というよりも、「自分たちの仕事を作らなければならないから、職務を継続している」ことが少なからず見かけられる。極端に言えば、公務員を使うための税金が公務員に使われるための税金になっている。
また、市民の代表として公務員を使う立場の議員にいたっては、今さら言うまでもない。官僚が用意した原稿を棒読みする大臣や首相を見れば、「使う側」と「使われる側」が逆転していることは一目瞭然である。
会社組織はどうであろうか。デフレ経済が20年以上も続き、正社員の比率が年々下がり続けてきている現代では、果たしてどうなのだろうか。上司は部下をうまく使えているのだろうか。
そして、「使う側」と「使われる側」の逆転関係で最大の問題は、人類が使うために生み出した物、あるいは知識や情報に人類が使われていることである。それらの中でも、人と「お金」の関係がもっとも危険である。人が使うために発明した便利な「お金」に、いつの頃からか足が生え、手が伸び、人の欲望を餌にして巨大化してしまった。人類は、はたして「お金」との本来の主従関係を取り戻せるのだろうか。
(文責:鴇田 三芳)