第339話 見えない世界へ

百姓雑話

研修生のS君は片道1時間かけて茨城県霞ヶ浦市から通ってきます。日暮れの時刻がもっとも早い季節になり、彼が帰る頃は暗くなっています。皆生農園の農場は純農村地帯にあり、月の出ていない晴れた夜であれば、小さな星までがキラキラ輝いて見えます。

そんな闇へと彼を乗せた車が消えていきます。

S君は、30代の脱サラ新規就農者で、非常に向上心があり優秀な青年です。長年つくば市にある会社で働いてきましたが、ご両親が北海道で経営する書店を継ぐことなく、霞ヶ浦市で継者がいない果樹農家を継承することになりました。彼の就農は市行政の政策によって支援されています。私が就農した四半世紀前とは、非農家出身者を取り巻く状況は大きく様変わりしました。

彼が継承する果樹園のメインは梨です。皆生農園のある白井市は梨の栽培で有名ですが、後継者不足と経営難で次々に廃園しています。何十年も実りを捧げてきた梨の木が抜かれ、更地にされ、あちこちに戸建て住宅が林立しています。

直売を中心に販売していきたいという彼に、果樹よりも天候リスクが少なく収益性の良い野菜の生産も勧めています。果物だけでなく、何品かでも売れ筋の野菜があれば、直売しやすくなります。それでも彼にとっては、農薬と化学肥料を使わずに野菜を栽培するのは、簡単ではないでしょう。

何ら将来への保証もなく生活と人生をかけて新たな世界に身を投じるのは、誰にとても冒険です。闇夜にヨットで大海へと漕ぎ出すようなものかもしれません。自分自身の過去を彷彿とさせられます。

見えない世界へと旅立つ彼は、今月で研修を終了します。首と腰が弱いので、その点が心配でなりません。相談があれば今後も助言を続けるつもりです。声がかかれば、霞ヶ浦市へ赴こうとも思っています。

彼のような若者が農林水産業で喰っていけるよう、政治も消費者ももっと支援していただきたい。

(文責:鴇田 三芳)