第136話 雑然

百姓雑話

本や書類を雑然と積み上げている人がいる。どちらかと言えば、私もそうである。本人は「雑然な状態」と思っていなくても、はた目にはそう見える。かつて仕事の関係で、霞が関の役所を尋ねることがよくあったが、ところせましと書類が積まれてあったのを見た時、さすがの私も驚いた。机の周辺に置ききれず、廊下にまでうず高く積まれていた。民間企業であれば、上司から整理整頓を厳しく命じられるところである。一般的に、書類や道具などを雑然と放置すると、作業効率が落ち、「だらしない」とみなされてしまう。

ところが、農業においては、整然とすることが常に良いかと言えば、必ずしもそうとは言えない場合がある。ここではナスの例を挙げる。

写真は7月上旬の私どものナスの様子である。一般的に、実のなる野菜(果菜類)は枝が折れないように支柱や紐で支える(誘引)のが不可欠とされている。また、品質の良い実を採るために、枝の数を減らす(整枝)。しかし写真のように、5月中旬に定植したまま、支柱も誘引もしていない。整枝もしていない。ナスの好き勝手に任せてある。

6月初めから収穫し始めたが、このように放置しておくと、とにかく一杯とれる。「親の意見とナスの花は千に一つも無駄はない」と昔から言われるように、ほとんどの枝に実がつく。枝を無理やり誘引していないために枝が広がり受光面積が大きくなるからである。植物にとって、まさに光は命の源である。さらに良いことは、実がたくさん成るために、肥料の効き過ぎによる病害虫が発生しにくくもなる。

ただし梅雨明け前後には、台風対策などのために疲れた小枝を切り落とし誘引するとともに、多くの収穫を補うために追肥をする必要がある。

一方、となりの畑には、右の写真のように手の行き届いたナスがある。この近辺の農家がよくする誘引方法である。きつく誘引してあるために受光面積が狭く、収穫量は少ない。整枝もしてあり着果数が少ないため、全体的に肥料が効きすぎていて、葉の色が黒々としている。厳し言い方をすれば、ナスの実を採るために栽培しているというよりも、葉を育てているようなものである。

人は、効率や美的理由で整然としたがる。時には、整然とすることが目的化することもある。しかし、このナスの例のように、整然とせずナスの好きなようにさせておいた方が良いこともある。

この近辺には耕作放棄された農地がたくさんある。深い森もいたるところにある。そんな景色を眺めていると、「自然界のすべてのものは、整然とした法則にそって存在し動いていても、人の見た目には雑然とした状態に移行する」と私は思えてしまうのである。横着な人間の屁理屈なのだろうか。

(文責:鴇田 三芳)