第201話 文明の代償

百姓雑話

私は便利さや快適さとはまったく無縁の農村地帯で生まれ育った。土間に積まれたレンガの竈(かまど)で藁(わら)や木くずを燃やし日々の食事を煮炊きした。お風呂も鉄製の風呂釜、いわゆる「五右衛門風呂」で、井戸水を満たし籾殻(もみがら)や落ち葉を燃やして沸かした。夜これらを燃やす当番は私だった。暖をとる手段は炬燵(こたつ)か竈(かまど)しかなかったので、火の当番はとても気に入っていた。後に、プロパン・ガスで料理できるようになった時、母や姉は大喜びしたが、私は少しがっかりした。

その地域には、バス路線はなく、最寄りの駅に行くには自転車で20分ほどもかかった。小学校へは平坦な水田地帯の田舎道を30分以上も歩いて通った。道端や田んぼには一年中たくさんの生き物たちが溢れ、まっすぐ帰宅することはほとんどなかった。不便極まりない地域であったが、子どもにとっては楽しい宇宙であった。

そんな寒村に40戸ほどが寄り添うように暮していた。ほとんどは専業農家で、米と麦の二毛作が村人の生きる糧(かて)だった。6月と11月は息つく暇もないくらい忙しい毎日が続いた。6月の梅雨の季節に麦を刈り、すぐに肥料を入れて耕し、用水路から水を引き入れ、また耕し、村中総出で一斉に田植えをした。11月は、その逆で、稲刈りを終えた直後に麦を蒔いた。一連の作業はすべて牛馬と人手に頼っていた。だから牛馬は、人と同じ屋根の下で飼われ、家族の一員であった。村民たちの協力関係もしっかりしていた。

私が小学校に上がった頃から、耕運機が普及し始めた。現代のトラクターから比べればオモチャのような機械であったが、牛馬で耕すよりも格段に早く、便利であっただろう。その後あれよあれよと言う間にバインダーという稲刈り機とトラックも普及した。

大きな文明の波は寒村にも快適さと便利さを運んできてくれた。誰もが喜び、時代の大波に身を任せた。当時は、そんな暮らしの激変に何の疑問も抱かなかったのだろう。

しかし、気がついてみると、牛馬は食肉用として売られ、専業農家は数えるほどしか残らず、村民間の結びつきも希薄になっていた。近所の人たちがすれ違っても、挨拶する程度で、世間話に興じることもなくなった。

この例は決して特殊ではない。いち早く機械文明を取り入れた先進国では既に経験済みで、いわゆる「開発途上国」と呼ばれている国々でも同様の社会現象が進行している。

さらに深刻な現象も世界各地で起きている。農地の砂漠化である。その原因として、気候によるものもあるが、栽培方法も大きく関与している。数々の大型機械を使い、川や地下から水を汲み上げ、化学肥料を多用する栽培方法によって、農地に塩類が溜まり、植物が生育できない状態になってしまった。この栽培方法に起因する砂漠化は、生産力のある耕作地が使えなくなるという点において、人類に及ぼす影響は計り知れないほど大きい。

食料をめぐる争いを繰り返してきた人類は、限られた土地でより多くの農産物をより効率的に得ようと格闘してきた。そして、大型機械と化学肥料と農薬という工業文明の産物を駆使し、収穫量を飛躍的に増やしてきた。しかし皮肉にも、その代償として、肝心の農地を次々に破壊してきた。

人の欲望にとりつき虜(とりこ)にする文明は常に、物質的な豊かさ、強さ、早さ、快適さ、そして便利さをもたらす。しかしその反面、文化を軽薄短小化し、人から忍耐力と想像力を奪い、回復しがたいほど自然環境を破壊してしまう。そして時には、残酷にも人の血を要求することもある。

(文責:鴇田 三芳)