第169話 不幸をビジネスにする

百姓雑話

「未来兵器」、「歩兵装備」、「怒りの突破力」、「日本刀」、「真実の信長」。つい最近、これらの本がコンビニの本棚に並んでいた。それも、もっとも目につく位置にズラッと並べられていて、驚いた。今世紀に入り年々、世界がきな臭くなってきたが、その一端が本の陳列にも現われているのだろうか。

「戦争は絶対に悪い」と言う人がいる。私も戦争に巻き込まれたくはなし、天寿を全うしたい。もちろん他人に危害を加えたくもない。しかし時折、「人間は戦争を根絶できるほど賢くはないのかもしれない」と考え込んでしまうことがある。

また、「人ひとりの命は地球よりも重い」と人命の尊さを表現する人がいる。人の命を軽んずる現実社会への警鐘なのだろうが、このような表現にも私は違和感を覚えることがある。そう言う人でも霞を喰って生きている訳ではない。毎日毎日、無数の命を犠牲にして生き延びているのである。人が人を殺すことと、鶏を殺すことと、命の本質において何が違うのだろうか。紙面の関係でここでは簡単に述べるが、人を殺してはいけないという倫理観は、「それを許せば、自分も殺されるから」という自己保身から生まれたものである。ほとんどの人は、フライド・チキンを食べても鶏の悪夢に悩まされることはないし、豚を殺したところで豚は復讐してこない。「もののけ姫」で描かれているようなことは、目の前の現実世界ではありえないことなのである。

幼い頃、私の両親は養鶏も営んでいた。加齢とともに産卵頻度が落ちた鶏は、父が殺して、家族の食卓にのぼった。鶏の足を縛り、逆さに吊るし、首を切り落とす。下に置いたバケツに鮮血がどっと噴き出す。それでも、鶏は体を激しくバタつかせている。そんな光景を何度となく私は目撃した。だから、今でも鳥肉があまり好きではない。

結局のところ、光合成をする植物を除けば、肉眼で見える生き物のほとんどは、他の生き物の命を犠牲にして、自らの命をつないでいる。ごく当たり前の、自然の摂理である。この自然の摂理のもと、無数の命を犠牲にして私たちのすべてが生きている。

しかし現代では、動物を自らの手で殺して食べることほとんどなくなり、そんな光景を目撃する機会も稀になった。その結果、この摂理を忘れ、人類は安易に戦争を起こしやすくなったような気がしてならない。

そして、戦争をビジネスにしている人たちが余りにも多いことも、戦争が増え続けている原因なのではないだろうか。まさに、「不幸をビジネスにしている」のである。

そのような視点で社会を見回せば、人に幸福を与えるどころか、不幸の上に成り立っている職業が少なからず存在している。たとえば、保険会社、葬儀業者、警察・消防署、多くのマスコミ、・・・・・・・・。枚挙にいとまがない。近年テレビ・ドラマでよく取り上げられている医師や看護師にしても、人の病や事故という不幸があって初めて成立する職業である。不幸と対極にいる医師は産科医くらいではないだろうか。

ひるがえって、自分はどうだろうか。種をまき無数の命にスイッチを入れる。よく育つように環境を整え、病気や害虫に負けないようにする。そして収穫。無数の命を犠牲にして対価を得る毎日が続く。それが現実とはわかっても、時折、「オレも不幸をビジネスにしている」と思ってしまうことがある。

(文責:鴇田 三芳)