第176話 学ぶ(2)

百姓雑話

学校の授業が純粋におもしろいとか楽しいと感じる生徒や学生が一体どれくらいいるのだろうか。他の者より良い成績を得て優越感を感じたいために勉強する者、親や先生に褒められたくて勉強する者、あるいは高学歴を残し他人(ひと)の上に立ったり高収入を得たいために受験勉強に没頭する者、そのような者がほとんどではないだろうか。

私といえば、高校までの授業のほとんどはつまらなかった。特に社会科は嫌いであった。ただただ暗記するだけで、年表でも見れば済むことなのに、そんな暗記に何の意味があるのか私にはまったく理解できなかった。それも、学校で教える歴史は、庶民の歴史ではなく、勝者や権力者の立場や視点から書かれていて、庶民が生きていく指針としては役に立ちそうもなかったからである。

しかし、高校進学にあたり、名の知れた地元の進学校に入るため、嫌いな社会科も勉強した。それは、小学校の頃から陰湿ないじめにあっていたからである。いじめる連中は学力がぱっとしなかったので、彼らと物理的に縁を断つには進学校に進むのがもっとも有効な対処と思ったからである。そんな理由で受験勉強をしたため、学んだことが身につくはずもなかった。高校に入ってからの勉強は苦痛そのものであった。学ぶことの楽しさを味わうことがないまま、高校を終えた。

心底から学ぶことの楽しさを初めて知ったのは、5年間勤めた会社を辞め、C大学の生物学科で生態学と微生物学を受講した時であった。その分野で著名な先生は、その授業内容が物事の本質に迫っているだけでなく、学生が興味をそそるように語ってくれた。

しかし悲しいことに、このような先生にたどり着くまでに、ほとんどの若者が義務教育や高校で学びにつまずくのである。

それは、国がさだめる指導要領にしばられた「つめ込み教育」が伸びざかりの子どもらの「どうして?」や「なぜ?」を次々に摘みとっていくからである。コンピューターに例えれば、メモリーにデータをどんどん記憶させるだけで、それらのデータを処理して何らかの結果を導くソフトを入力しない、それが日本の教育である。たぶん今もそうだろう。だから、アメリカのようなイノベーションがなかなか生まれない。

余談だが、過度の学歴社会で熾烈(しれつ)な受験勉強を強いられている韓国や中国も同様である。世界四大文明の発祥地であり、火薬や羅針盤、磁器や絹織物などを発明した中国に、あれだけの人口を擁している中国に、はたして何人の自然科学系のノーベル賞受賞者がいるだろうか。海外の華僑も含め8人しかいない。ちなみに、日本人は19人である。

自然科学系のノーベル賞受賞者からも推察できるように、学びの本質は、「どうして?」「なせだ?」に存在するのである。湧きあがる疑問や好奇心に正直に応え学ぶ楽しさを実感させるのが真の教師である。そして、幼子にとって何よりも不幸なことは、まず出会う親や先生が未熟な教師であることである。「どうして?」を連発されて「うるさい!」と怒鳴る親、「どうしてですか?」と訊かれては困る先生が大半である。

(文責:鴇田 三芳)