今年も3月11日を迎え、東日本大震災が発生した2011年から5年がたちました。あの日、私は東京にいましたが、3月13日に福島県二本松市に行き、翌々日の15日には仙台市に入りました。車もあまり走っていない仙台の街を見て、「静かだな」という印象を最初に受けたのを覚えています。私の親戚も犠牲になった阪神大震災でも10日後に神戸の街を見ましたが、建物が崩壊し焼け焦げた臭いが残る中、被災者や支援者が道路にも溢れていて、まさに大災害後の混乱を実感しました。でも、仙台は人も車もまばらで、異常なほどの静けさでした。
その静けさは、仙台市の穀倉地帯と言われる若林地区や、仙台市の隣の名取市や岩沼市の稲作地域において、さらに顕著なものでした。泥や流木に覆われた風景を見て本当に言葉がありませんでした。津波が一瞬にして広大な田畑を飲み込み、風に揺れる草木もない静けさだけが残されていました。まさに「田んぼが死んでいる」状況でした。田畑を一瞬にして失った農業者にとって、その精神的苦痛は計り知れないものであったと思います。
1ヶ月ほどして、岩沼市で農業を営む友人に会うことができました。家は床下浸水で大きな被害は免れたようですが、田畑は津波の被害を受けていました。そんな中、友人は畑の一角で塩トマトを栽培し始めていました。土壌塩分の濃度が高いところでも栽培可能な塩トマトの栽培は、津波の被害を受けた地域の人たちにとって、暗闇を照らす一筋の光明となったと思います。
また、岩手県の釜石市や大槌町でも、震災後すぐに各地の避難所で仲間とともに救援活動を実施しましたが、避難所での生活は時間とともに様々な問題が生じてきます。特に高齢者にとって、日中の時間をいかに過ごすか、心の健康管理の観点からも大きな問題でした。
この問題に素晴らしい解決策を示してくれたのが、地元の農業高校の元校長先生でした。使用済みの肥料袋に土を詰め、ナスやトマトの苗を植え付けて、避難所で配布したのです。この思いがけない小さな緑の贈り物に、震災前から野菜を育てていた高齢者はもとより、若い人たちも大変喜んでいました。津波とともに希望を失いかけていた人たちが、日々植物が育つのを見ることは、まさに明日への希望を与えられた思いだったのでしょう。
東日本大震災後の救援・復旧・復興の過程で多くのことを学ぶことができました。今後の災害発生に備える対策を考えるとき、避難所の生活を可能な限り改善および短縮することが求められています。その対応策の一つとして、ドイツで200年の歴史を持つ「クラインガルテン」が大きなヒントとなると思います。都市部の郊外に農園と宿泊施設を備えた施設を作り、週末は家族で野菜栽培を楽しむとともに、地域の交流の場とする。すでに全国で普及しつつありますが、さらに休耕田などを活用して施設を増やし、大災害時の避難所としての機能を付加させた施設にしておけば、仮設住宅の入居を待つまでの間、避難所での苦難も軽減されるはずです。
また、その対象施設として、各地で廃校になった学校を活用することも可能でしょう。学校には広い校庭があります。その校庭を市民農園として市民に提供すれば、地域コミュニティの維持につながります。災害時には廃校そのものが避難所となり、校庭の菜園は大いに役立つはずです。野菜が避難者に対する食料になるだけなく、野菜を育てることによって気持ちの平穏を取り戻せることが期待できるのです。実際に市川市の廃校になった高校の校庭が菜園になりつつあります。
このように、災害対策に農業の視点を入れることの必要性を、東日本大震災から5年目を迎えた今、改めて強く感じています。
(文責:大塚 正明)