第188話 モダン・タイムス

百姓雑話
これはテストえです

梅雨が明けた。関東地方は、エルニーニョ現象の影響もあってか、梅雨入り宣言後も雨がほとんど降らなかったので、明けるのが遅くなると予測していた。しかし、明けてみれば、ほぼ例年並みであった。強い日差しと高温のために、各種の夏野菜がたくさん採れ始めた。とにかく毎日、忙しい。9月の中旬まで、早朝から収穫に追われる日々が続く。

そのうえ、秋冬野菜の種蒔きも始まった。ごぼうと人参は既に蒔き終わり、ブロッコリーやキャベツも蒔き始めた。私どもの主力野菜であるブロッコリーは、これから10月上旬まで定期的に蒔いていく。秋の彼岸頃までは、厳しい暑さにくわえ、年間でもっとも忙しい。体調管理を徹底しなければならない。疲れから腰を痛めれば、仕事どころではなくなり、生活そのものにも支障をきたす。熱中症にでもなれば、命にかかわる。厳しい自然環境を相手に多品目を通年栽培する者の宿命かもしれない。

また、この期間は、体調管理にくわえ、いかに作業効率を上げられるかがポイントになる。作業が遅いとか、要領が悪いと、やたらと時間ばかり費やし、体調を崩すことになる。運良く崩さなかった場合でも、秋冬作が計画どおりに進まなくなる。なぜなら、収穫作業と作付け作業がバッティングしたら、収穫を優先するからである。

作業効率を追求するのは、何も農業だけではない。芸術家や高度な知的労働者は別かもしれないが、一般の製造業では、1分1秒単位で製造工程が管理され、1円以下の単位でコストを計算するのが普通である。そうした血のにじむような努力の結果として、世界のトヨタが存在している。現代のような経済活動が続く限り、しょせん、仕事とはそういうものであろう。

とりわけ、コンピュータの出現が労働の効率化に拍車をかけた。さらに、GPSとスマホの普及により、離れた所からでも労働者の状況が把握されてしまう。運転手や営業マンが出先で気軽に昼寝など、もはやできない時代になった。

しかし一体、人間はどこまで効率追求が可能なのだろうか。人間の精神はいつまで効率追求に耐えられるのだろうか。はたして普通の人間は、現実(リアリティー)と仮想現実(バーチャル・リアリティー)の乖離の拡大によって、自己破滅しないのだろうか。人類は滅亡の直前まで効率を追求し続けるのだろうか。こんな素朴な疑問を抱き「効率の追求」に異を唱えようとしても、身分の保証された人や資産家、あるいは著名な学者やジャーナリストでもなければ、もはやは不可能に近い。

胡瓜(キュウリ)を収穫していたら、アマガエルが胡瓜の頭に座り、じっと獲物が通りかかるのを待っていた。収穫の手をとめ、それを見ていたら、「人間もこんな生き方ができないのだろうか」と思ってしまった。

一世紀近く前、チャップリンが映画「モダン・タイムス」で世相を痛烈に批判した。たぶん、彼の批判的な指摘は、人間が効率を追求し続け、機械が生産活動にいっそう深く浸透し生活に欠かせなくなればなるほど、人の生き方を問うていくことだろう。

(文責:鴇田 三芳)