第198話 教える? 教えない?

百姓雑話

「知らぬが仏」というように、知らないほうが平穏に生きられることもある。現代のように通信ネットワーク上で瞬時に情報のやり取りができると、「そんなこと教えてもらいたくなかった」というようなことまで飛び込んでくる。それによって、悩みが増したり不安にさいなまれたり、時には命の危機に瀕することもある。実際、ツイッターやフェイス・ブックで誹謗中傷されて、自殺してしまった若者が何人もいる。

その一方で、「それが知りたい。教えて欲しい」と切望しても、意図的に隠されていることもある。そんな時は、やはり不安や不信、さらには命の危険を感じたりもする。

どちらにしても、「教える」あるいは「教えない」ということには常に功罪両面がつきまとう。

農業関係でも同じようなことが言える。例えば、農薬の使用について、どれだけの消費者が具体的に教えられているのだろうか。たぶん日本では、限りなくゼロ、微々たる情報しか教えてもらっていないだろう。例えば、スーパーなどで売られている野菜には数十回も農薬がかけられているものも決して珍しくはない。トマトやキュウリなどの果菜類では、収穫の前日でも農薬をかけられる。法律上、それが許されているからである。葉物野菜の中でも、大産地で生産された野菜には、やはり何十回も農薬がかけられていることが多い。健康を気にして食材を選んでいる人は、「せめて農薬の使用回数くらいは明示して欲しい」と思っているだろう。教えてもらわないと、不安と不信が募るばかりで、購入意欲が減退してしまう。

もちろん、その逆もある。「いずれにしても食べないといけないのだから、いっそ農薬のことなど知らないで『うまいうまい』と言いながら食べたほうが、きっと消化に良いだろう」と思う人もたくさんいるだろう。「日本は世界に冠たる長寿国なのだから、農薬の使用回数など教えてもらわなくたって構わない」という考えも成り立つ。

私のところに研修に来る人たちもさまざまで、教えてもなかなか理解できそうもない人もいれば、教えれば乾いたスポンジが水をサッと吸い込むように理解する人もいる。前者には平易に教え、難しいことは教えないこともある。後者にも、教えないことがある。課題を与え自分で調べたり考えたりするよう仕向ける。教え過ぎると、思考力や想像力がなかなか伸びず、体験に根差した知恵が育たないからである。

義務教育の世界にも同じようなことがある。本当に教えてもらいたいことは教えてもらえず、どうでも良いことを執拗に教えられる。その最たるものが歴史の授業である。一言で言って、「くだらない授業」である。「何年に誰々が何をした」式の事実の断片を教えられるだけで、肝心の「なぜ」を教えてもらえない。そんな断片的な事実を知ったところで、長い人生をまともに生き抜く上で何の役に立つのだろうか。もっと言えば、教えられることは勝者側から見た歴史であり、事実かどうかの保証もなく、庶民にとってどれだけの価値があるのか大いに疑問である。そんな事実は、必要とする人が必要な時にパソコンで調べれば、事足りることである。また、期間的には、明治維新の前夜から1990年代のバブル崩壊までを綿密に教えてもらえれば、当面の歴史教育はそれで十分である。

従来のような歴史の授業に多くの時間をさくくらいなら、健康や食べ物、さらには職業に関することを積極的に教えたほうが人生をもっと豊かにするだろう。

(文責:鴇田 三芳)