第206話 落ちる

百姓雑話

秋も深まり、落ち葉が積もっている。悩ましい雑草も、ほとんど枯れ種を大地に落とし、命を明日につなげた。この頃になると、越冬野菜の作付けもすべて終わり、「今年も元気に働けて本当に良かった」という感謝の念をいだく。

ところで、「落ちる」という言葉を聞いて、圧倒的多数の人たちは悪いイメージを抱くのだろう。「落第」、「落ち目」、「落命」、「落日」、「落盤」、「没落」、・・・・・・・・・。挙げ始めたら次々思い浮かぶ。「落ちる」とか「滑る」という言葉は、受験戦争に苦しめられた人たちにとっては禁句であった。その一方で、良いイメージを抱かせる「落」のつく単語はなかなか思い浮かばない。もしかすると、「落ちる」ことへの恐怖心を本能的に持っているのだろうか。

私にも実際、落ちることへの不安や恐怖があるらしい。年に何度か、ドイツ語の単位が取れず大学を卒業できない夢を見る。落第しそうになった過去がトラウマになっているのだろう。

ところで、農業に深く関わるようになってから、「落ちることは必ずしも悪いことばかりではない」と思うようになった。いつも植物に囲まれ、季節の移ろいを眺めていると、そんな気になる。

空気中の汚染物質や老廃物を貯め込んだ葉は、寒さで衰え、枝から離れ大地に落ちる。大地に積もった葉は、微生物の餌となり、無数の命を育む。そして、分解された葉がまた植物の命を育む。この絶え間のない循環によって、私たち人間も育まれてきた。自然界においては、落ちることも自然の循環の一つであることに気づかされる。

自然界は、実にゆっくりと、気の遠くなるような時間をかけて物質やエネルギーの循環を繰り返し、少しずつ豊かになってきた。無機質な火山灰や溶岩に覆われた孤島でも、地衣類(ちいるい:菌類と藻類から成る複合生物)から始まり、小木がちらほら生え出し、徐々に豊かな森へと進化してきた。

その一方で、生物は反自然的な生命活動を営んでいるとも言える。そして人類も、自然に逆らい、あるいは自然を搾取し、世界中のいたる所に巨大な文明を築いてきた。その文明が今や、危機に瀕している。地球温暖化への警鐘が何十年も前から鳴らされてきたにもかかわらず、大局的に見れば、一向に改善されていない。1997年に京都議定書をまとめ上げた日本でさえ、二酸化炭素の排出量を減らすどころか、当時よりも増えている。その口実は、「生活の質を落としたくない」となる。さらには、「生活の質を落とすことなく、英知をしぼって有史以来の難局を乗り越えよう」という意見もある。

はたして、そうだろうか。

人類は、自然を豊かにする循環とは真逆な流れを進化と呼び、収奪文明を享受し自我自賛してきた。そんな人類の生き方の破局が目の前に迫っている。生存の危機かもしれない。その崖っぷちから転げ落ちる前に、気を落ち着かせ、過去を正直に認識し未来をしっかり見据え、文明の舵を切るべき時代を迎えているのではないだろうか。

(文責:鴇田 三芳)